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小学校サバイバル〜一年生編〜

わが子が小学校に入学した年は東日本大震災が起こった年でした。
忘れもしない2011.3.11.14:46。私は津波の被害から運よく免れた一人です。

あの日は吹雪でした。わが子は保育園でサンドイッチを作っていたそうです。たまたま地震の時刻に帰宅途中だった私が駆け付けた時には園児は吹雪の中園庭に避難していました。

ライフラインも止まりしばらく閉園が続き、卒園式はギリギリ3月31日に行うことができました。

そして入学準備は据え置きになり、宙ぶらりんな自宅待機が続きました。
入学式は4月20日を過ぎてやっと行うことができました。

特別支援学級に入学

小学校に入学するにあたり迷ったことは、通常学級に入るか特別支援学級に入るかです。

卒園間近のわが子の状態は、環境に慣れるまでに非常に時間がかかる、日常生活動作がゆっくり、鉛筆が持てない(持てないから持たない)、感情が不安定になりやすい、などでした。

知的障害はないにしてもとても他のお子さんと同じ教室で机を並べて勉強できる状態とは思えませんでした。
スロースタート、スモールステップ、とにかく学校という組織に慣れることが第一目標でした。

情緒クラスに在籍

発達障害は特別支援学級の中でも情緒クラスに区分されます。わが子が入学した時は我が子を入れて3人が在籍していました。
知的障害の程度からすると、高機能、中等度、重度とバラエティ溢れるメンツでした。

入学したてのわが子は学校がどういうところかわからずとにかく拒否しまくりました。
震災の影響もあり保育園で行われるべき小学校への移行期間を経験できなかったこと、1ヶ月半に及ぶ在宅待機を余儀なくされたことですっかり家や母から離れること自体が不安になっていました。

私は職場が津波の被害を受けたこともあり、仕事を休職してわが子が学校に慣れることに専念しました。皮肉なことにこの時期に時間が確保できたことはありがたいことでした。

毎朝わが子と一緒の通学が始まりました。近所の同じ保育園だったお子さんと時間を合わせるようにして、少しでも同級生の存在(同じように学校に通っている人達がいる)を意識できるように工夫もしました。

ところがわが子は行きしぶりが強くなるばかり。手を引っ張りながら泣き泣き毎日教室の中まで連れていきました。
先生が来るのはチャイムが鳴る5分前あたりでした。それまで不安で泣きそうなわが子とどうやって過ごそうか?
自作の絵カードを作って朝の荷物の片付けや準備を整えられるように工夫しました。

特性のある担任との出会い

上記の文章を読んで不思議に思いませんか?
新入生、しかも支援学級の一年生の登校初日に何もサポートがありませんでした。

通常学級では担任の先生が子供たちよりも早く教室に来てくださり、さらに六年生が一年生のお世話に来てくれていました。

我が子への対応に対して訴えた後に帰ってきた言葉は、学校側からは「支援学級に新入生がいることを忘れていた。そのため六年生の配置をしていなかった」というずさんな回答でした。
担任からは「父が骨折していて早く学校に来ることはできません。サポートティーチャーもご家庭の事情があるので早く来ることはできません」という呆れた回答でした。

シーンとした支援学級で待ちわびる毎日。そこで担任から言われたことは「高機能なのになぜお母さんがついてくるんですか?ケガをして歩けないなら仕方ないですけど一人で来れますよね。」でした。

これまでの対応などを総合的にみてもその場限りの計画性のない行動ばかり。度重なる的外れで失礼な担任の言動で完全に信頼感は略奪され、荒野に放り出されました。『一人で来れるならとっくに来てるだろ!』今思えば悔しい限りですが、その時の私は心の声も初めての小学校という慣れない環境と並外れて良識のない担任に遠慮してしまい、ハッキリとした言葉にはできませんでした。

挨拶は頭を下げて『おはようございます』であり、保育園時代から慣れ親しんだ過集中中でも行える軽くタッチする挨拶、合図は挨拶としては認められない、とも言われました。

タイムテーブルを見ると『自活』『生単』とありわが子も疑問に思っていたので授業の内容を確認しました。答えは「今までそんな事を気にする(気にできる知能を持つ)生徒などいなかった」と嘲笑されました。

ますます私の中での不信感は膨れ上がり、『生徒をバカにしているのか?』とさえ考えるようになり疑心暗鬼になってしまいました。

そして、反発する私との間では電話で一方的に怒鳴りつけられるような物言い、「お母さんはわかってない」などの発言、家庭訪問は五分で撤退(他の生徒宅には一時間滞在)などが次々と起こりました。

学校側の対応

わが子を人質に取られている気持ちでハッキリと物を言うことはできずとも、私も随分反発的な行動をとったのでしょう。

結果的には教頭と、コーディネーターと面談を重ねて担任が作った支援計画ではなく、『学校が提示する支援計画』という名の打開策を提示されました。

しかし担任からの暴言などに対する謝罪の言葉は全くなく、学校側は未来への希望を打ち立てた話で丸め込もうと必死でした。
いつまでも揉めていても仕方ないので私もこの提案に乗らざるを得ませんでした。

完全に丸くおさめられた感じでしたが、担任の最後の悪あがきは定期的に相談、面談していただいていた教育委員会の相談員との相談案内のお便りを意図的に渡さないというバレバレな幼稚な作戦で幕を閉じました。

一年生の生活

最初はパニック三昧で始まった小学校生活。家から離れる不安、母から離れる不安がわが子のパニックトリガーを引きまくりました。

しかしさすがに時も経てば少しずつ慣れては来るもの。教室まで送らなくとも顔見知りの同級生に支援学級まで送ってもらったり、なるべく同級生と一緒に登校する事を続けたりと一年間毎日一緒に通いました。(完全に自立登校ができるようになったのは三年生の夏休み明けです)

鉛筆は補助具をつけることで『持てる』と自信がついてきました。
勉強は通級という形で通常学級で受けることが多くなり、主治医の指示で板書についていけるように毎日なぞり文字の練習、算数の手作り問題など自己学習を続けることで他の生徒との段差を埋める努力をしました。

その頃には支援学級の担任からの指示よりも、主治医の療育計画の実施することが的を得てベストであり主治医の指示に従い学習を進めていました。

その他日常生活動作の練習や定規の使い方、学校準備のための視覚支援(絵カード、リスト、物品の表示工夫)など家庭での自主行動が増えるように試行錯誤していました。

一年生が終わる頃にはすっかり通常学級で授業を受けることができるようになりました。
逆に支援学級で何をサポートしてもらったのか、今のひねくれた私の記憶では定かではありません。

ふと支援学級の担任からの宿題をお断りしたことを思い出しました。
それは『塗り絵』の宿題でした。担任が宿題を出そうと思った理由はわが子は塗り絵が苦手のようだから毎日家で練習してはどうか、ということでした。
私は即答でお断りしました。苦手で嫌いなことを毎日宿題として継続することは不可能に近く、その課題そのものがDCD(発達性強調運動障害)が理由で『できない』わが子にとっては拷問だと考えられたからです。
例えば塗り絵の前々段階として丸を塗りつぶすとか、クレヨンなど持ちやすいものから鉛筆使いを練習するなど、直接塗り絵の課題ではなくても練習にはなるものです。その一ひねりがなかったのでお断りしました。

小学校の人間関係

七歳でも差別もあればいじめもあります。
通常学級の前にいると「支援学級に帰れよ」などという言葉が聞こえます。

帰り道に飛び蹴りをくらったり、一緒に歩いていた支援学級の子のキーホルダーが奪われることもありました。

予めランドセルの鍵を開けておき、「下向いてみて」とそそのかしてランドセルの中身を落下させるということもありました。

これらは六年間の小学校生活のいじめの始まりであり、この後も様々に人や方法を変えていじめは続きました。

環境に慣れる、学習に慣れる、いじめに対応する、担任お任せ主義に他の先生を巻き込むなど、母子ともに小学校でのサバイバルは否応なく始まりました。

ここまで読んでくださりありがとうございます。



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