わたしは書いてはいけないのか
恋愛小説を書いている。
主に、男と女がどったんばったん上へ下への大騒ぎをするものを書いている。
ラブコメ、と言うには少しコメディが足りないような気がするし、おまえは何を書いているんだ、と聞かれると「ちょっと日本語がよく分からない」って答えるしかないようなものを書いている。
二、三年に一回くらい、大きな壁にぶち当たる。
そのトリガーは自分自身だったり、他人だったりするけれど、いつも共通することは、「わたしがこれを書く意味はなんだろう?」という感情だ。
まったく違うタイプの作品をクリエイトする人と比べても仕方ないことは分かっているが、わたしはわたしの作品を一歩引いて見たとき、「これは誰かの人生に意味を成すものだろうか?」と詮無いことを考えてしまうのだ。
わたしには、「この本を読んで人生が変わった」「この芸術作品で価値観がひっくり返った」という経験が浅薄だ。
面白かった本は多いし、感動した芸術作品もある。
(余談だけどルーブル美術館でサモトラケのニケを見たときはちびってしまった)(ちびってない)
でも、人生を変えた作品にはいまだかつて出会ったことがない。
しかしわたしは、価値観が変わった、とか、人生観について考え直すきっかけになった、とかいう作品を持つ人々を知っている。
だからだろうか。クリエイティブな作品には、「誰かの人生を変える力」があるものだと思い込んでいるところがある。
自分がそういった体験をしたことがないくせに、なんじゃらほいである。
だからこそ、自分の作品について首を傾げる機会が、数年に一度はあるのだ。
特に小説において言われがちなのは、「メッセージがないといけない」という言説。
作者の伝えたいことは何だ?
この作品を通して何を読み取る?
そういったものが、こと小説においては過剰に求められているきらいがある気がする。(当社比)
だから、わたしは特に伝えたいことやメッセージ、そして自作品を他者が読んだときに読み取ってほしいものがないから、書いていていいのだろうか、と思ってしまうことがある。
他人が書いたメッセージ性の強い作品を読んだときなんてそれが顕著だ。
わたしにはこんなもん書けない、と圧倒されると同時に、じゃあなんでわたしは筆を執っているのだろう、と虚脱感に見舞われる。
で、だ。
わたしは、文芸の恋愛小説と言うほどかちこちのものを書いていない。(気がする)
でも、ラノベのラブコメって言えるほどライトにも振っていない。(と思っている)
中途半端なものを書いているのだ。
だからいつも、ぐじぐじと悩んでいる。
SNS(主にツイッター)で他人の作品への感想が、商業同人問わずバンバン流れる。
人が何らかの作品に触れて感情を大きく動かされているさまが、あまり得意ではない。
わたしにとって、その人の感想(エネルギー)はカロリーが大きすぎて、読んでいて苦しくなるからだ。
たぶん交感神経が過敏なために、その感想に感情が引っ張られて苦しくなるんだと思うんだけど、どうだろうな。
えらそうに御託並べてみても、自分の作品が動かせない感情をいともたやすく(たやすいわけがないがここではあえてそう書く)動かしているクリエイターに嫉妬しているのかもしれないな。
でも、わたしの作品が人の心を動かせないかと言うと、これは謙遜になるので「ないです」とは言えない。
実際、HPのコメント機能で情熱的な感想をいただくことがある。ないと言うのはその人たちに失礼だ。
だがしかしどんだけ自分の芝生が青々と茂っていても、となりの芝は青い。
わたしが、自分も他者の感情を動かせるだけの作品が書ける自負があるのにとなりの芝をうらやむのはたぶん、自分の作品に「メッセージ性」がないと思っているからだ。
現代日本を舞台に、特に政治の話も宗教の話も野球の話もしない人たちが、愛だの恋だのうんたらかんたらこまごまと小さな自分たちの世界でまとまったり離れたりする。
この際自分の文章力は棚に上げて言うけど、そういった人々は誰かにメッセージを伝えるために生きているのではないので、わたしもメッセージを作品内に隠すことがないのだ。
なので「考えさせられる」というふうな感想を見るとないものねだりをしてしまうし、わたしの作品でも誰か何かを考えてくれないかなと思ってしまう。
考えることがあるような題材や文章力じゃない上にそうした意図で作品をつくっていないのだから、ほんとうにこれは詮無いことだ。
だいたいの場合は、自分で自分のご機嫌をうまくとって回復するけど、たまにメンタル激落ちくんのときにこの「わたしはなんでこれ書いてんだ」期が来ると、心の中で暴動が起きて作品全消去とかの暴挙に走ってしまったりする。(する、というかした。そして後悔した)
詮無いって二回も言ってんだから自分でも「これは仕方ないことなんだ」ってのは分かっているんだけど、分かっているから考えずに済むかっつったら、ねえ。
最近ようやく、「小説にメッセージ性が必要だというのは妄言」という気持ちになれるようになってきたので、落ち着いている。
もちろん、メッセージ性のある小説があっていい。それは当たり前だ。どの形態の作品にも言えることだ。
それなら、メッセージ性のない小説も当然あっていいのだ。
そしてたぶん、メッセージ性の強い作品はわたしと肌が合わない。
書くにも読むにも、向いていない。
それは思考の放棄とかではなくて、わたしがわたしを守るためだと思う。
感情を強く動かされることが苦手だし、正直メッセージを込めることはかなりの技術が必要になる。
へたにやると「これは登場人物が作者の考えを言わされている」というのが見え透いてしまい、うまくいかないのである。
わたしは書いていてもいいのか、という問いは、おそらく小説を書き続ける限り並行してとなりを歩くものであると思う。
それが蛇行してわたしの道を邪魔してきたら、強い心ではねのけたい。
目玉焼きにはソース。
目玉焼きには塩コショウ。
目玉焼きには醤油。
目玉焼きにはケチャップ。
目玉焼きには、
人の数だけ答えがある「クリエイトする」という行為には、当然マニュアルはない。
だからわたしは、目玉焼きには柚子胡椒。
ってか何でもかんでも柚子胡椒つけたら美味くなるからな。柚子胡椒は天才の食べ物。