人の金で食う寿司は美味い
知人に「まずいメシは死んでも食わん」と言う人がいる。
わたしはバカ舌の自覚があるので、この人の言うまずいメシがどれのことを指しているのか、具体的な敵がいるのか、よく分からないけど。
つまりグルメなのである。美味しいものを食べて、自分の中の感覚を研ぎ澄ましていきたいのだと思う。
美味しいっていう感情はわたしにとっては理屈じゃない。(美味しい料理は得てして理にかなった方法でつくられていることは置いといてだ)
味はやっぱり生命活動にかかわるものだと思うんだよな。美味しくないものは体にもよくないことがあるのだから、体が勝手にアラートを出してこれを食うなと主張する、それがまずいだ。
すごく昔のことになるけど、海外旅行に行った際JAL機を使った。
そのとき、機内でジュースを飲んだ。そう、あれだ、スカイタイム。
めちゃくちゃに美味しかったんだ。え、こんなに美味しいジュース飲んだことない! って思った。
それからしばらくあと、今度は地上でスカイタイムを飲む機会があった。
あれ? と首を傾げる。
確かに美味しいけど、そんなにめちゃくちゃ絶賛して小躍りするほどの特別な味はしないな? と思った。
(もちろん、スカイタイムはめちゃめちゃ美味しい。これは、比較の話である)
これは味覚に思い出補正がかかったのだと思われる。
楽しみにしていた海外旅行、初めての長距離飛行、もろもろ。
それらが、まずスカイタイムの味をぐんと美味しくさせた。
そして、旅行が楽しかった、という記憶が、後づけで美味っぷりを加速させた。
これと似た現象をわたしはよく知っている。
たとえばまったく同じ味の料理を、独り暮らしの家で黙々とテレビもつけずスマホ片手に食べるのと、実家でわいわい母親やきょうだい、はたまた仲のいい友達と今日あった出来事を話しながら食べるのと。
たぶん、味が違う。なんなら同じ出来立てなのに温度も違う。
さらに言うなら、食べる速度も違うと思う。
わたしの場合、家族とか友達と囲む食卓というのは、かなりめちゃくちゃ楽しいものだ。
まずそもそもがオシャベリマンなので、とにかく誰かと何か喋っていないと落ち着かないことも多い。何かあったら、その出来事を誰かに面白おかしく伝えたくなる。
つまり、美味しいという感情は理屈じゃないのだ。
少なくともわたしの記憶に残っている「今までの人生で美味しかったもの」のとなりには常に人がいる。
昨今、なかなか人と食卓を囲むのが難しい日々だ。ひとりご飯の頻度も格段に上がった。
それでも、食事中に誰かと通話をつなげるとかして、わたしは美味しいをキープしようとしている。
まずそもそも、わたしの舌が前提としてあまりグルメじゃないからこの理論が成り立つのかもしれない。
真に繊細な舌を持つ人は、一緒に食べる誰か、になんか味を左右されないかもしれない。
だとしてもわたしは他者の舌の感覚を共有はできないので、それでいい。
わたしは、自分が美味しいと思ったものを誰かと一緒に食べたい。
ちなみに料理をつくることに慣れてきたら、なんとなく自分レシピでつくってしまうけど、これはだいたい失敗する。
失敗作をひとりで処理する。
これが、わたしが考える「まずいメシ」である。
拝啓、まずいメシは死んでも食わん派の知人よ。
人の金で食う焼肉は美味いぞ(???)