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『spring』 恩田陸

新年の読書にふさわしい、晴れやかで力のみなぎる一冊である。

天賦の才を持つバレエダンサーであり気鋭の振付家である一人の青年の歩みが、4つの章にわたって複数の視点から描かれる。

第一章『跳ねる』は、世界のトップで活躍する男性バレエダンサー二人の物語。清々しく爽やかなバディものだ。
語り手「俺」は、ドイツの名門バレエ学校が主催するワークショップで不思議な存在感を放つ少年、春と出会う。その少年に感じる違和感の原因は、彼の奇妙な視線にあった。
じいっと周り全体を、見るというより「感じて」いるように視線を置いている。何を見ているのかと「俺」が聞くと「この世のカタチ」と春は答えるのだった。

片やダンサーとして、片や振付家として、後に共にバレエ界での名声を得るまで成長する二人の出会いから、春の振り付けにより二人で踊る演目の完成までが、バレエ学校の個性的な仲間や講師達のエピソードを交えつつ物語られる。

巡り合わせ?運命?言葉はなんでもいい。たぶん、君らは別々でもいつかは出てきたと思うけど、二人で同時に出てきたってところに意味がある。

互いが互いに、「おまえが俺をここまで連れてきてくれた」と思い合う二人の関係が眩しい。

続く第二章『芽吹く』、第三章『湧き出す』では、叔父やプロ仲間の視点から、幼少期からの春の様々な顔が描かれていく。

私には分かる。自分の教え子が、愛弟子が、自分には決して行けないようなところ、思いもよらぬ遠いところまで行ってくれる、それがどれほど教師にとって幸福か。その幸福な生徒が自分のことを「私の先生」と呼んでくれることの至福を。

バレエの才能を見出し育てた教師も登場し、海外へと飛び出して行く春を彼らが見送る場面ではホロリとなる。

作中では春が振り付けた様々な作品にも言及されるのだが、それらの演目がカラフルに躍動的に書き起こされており、上演されるのを鑑賞しているような気分になる。まるで読むガラコンサートだ。あまりに鮮やかに描写されるので、実在するバレエ作品ではないかと錯覚しそうになり、実際の上演を観たくなってしまう。

そして最終章『春になる』。ここでは、掴みどころのない天才という春のイメージが一気に人間らしいものに変わる。「バレエの神の贄」と自覚してバレエに心身を捧げながらも、その心は等身大の一人の若者。悩めるナイーブで真摯な青年の姿が立ち現れる。
孤高の天才が恋をし、別れに涙を流し、自身の心と向き合う。そして美しい神童の物語は、輝ける未来への跳躍を控えて、凛と晴れやかに幕を閉じるのだ。

*****

プロの視点から捉えた現代バレエの世界も読みどころだ。ふんだんな舞台裏トークや作曲理論の豆知識など、「へえ!」と思うことも満載で読んでいて飽きない。

彼らは、ダンサーの向こう──踊りの向こうに、何か広い景色を見ている。
ダンサーにとっては、踊ることそのものが「目的」だけれど、振付家にとっては踊ることはあくまで「手段」であって、「目的」はその向こうにある。
たまたま彼にとっては踊りが「手段」だっただけで、別の技術を持っていればそれがまた「手段」となり、「目的」を果たすことだろう。

振付家という特殊な生業に恩田氏が着目したのはなぜだろうと気になったのだが、この部分を読んで少し分かった気がした。
「この世のカタチ」の紡ぎ手である春が描く踊りを創造し、文章の力で紙の上に立ち上がらせる、恩田陸という小説家もまた一人の「この世のカタチ」の紡ぎ手であるのだ。
「バレエの語彙」が増えることは、ダンサーにとっても振付家にとっても非常に重要であり、語彙が増えるほどより繊細で複雑な物語を語れる、と登場人物の一人が言う。しかしまた、語彙が多ければいいというわけでもなく、使い古した表現や「スタイル」という名の自己模倣に満足していると、ひとつひとつの言葉が軽く浅くなるとも彼女は語る。

ダンサーや振付家だけではない、それはすべてのクリエイターが陥る罠だ。・・・オリジナリティを保ち続けるには、進化しなければならないし、深化しなければならない。変わらないために変わり続ける、というのはあらゆる分野に通じる真実だと思う。

作中で語られる言葉に、著者の小説家としての心がトレースされている。熱量のある作品だと感じるのはそのためかもしれない。


おまけにもう一つお伝えすると、この本、紙の本で読んでこそ楽しめるかわいらしい仕掛けがついている。思わず「かわいい!」と言ってしまうので、ぜひ見つけてみてほしい。