「美味しい」という言葉の調味料

美味しい、美味しくないが、案外思い込みに左右されている、と思うようになってから久しい。

味の好みは本当に人それぞれで、一般に言われている「これは美味しい!」という絶対指数も、案外「専門家」や「プロ」の人々の嗜好の問題の範疇なのではないかと思う。

ので、個人的に、取り急ぎ外食においては、

・きちんと丁寧に作ってくれているか
・お支払いしたいと感じる職人的技術があるか
・食材と食べる人に対する礼があるか

あたりを美味しさの基準にしている気がする。実際に美味しいと思うかどうかは、ある程度年齢がいってしまうと、もう本当に好みの問題でしかないと感じるので、「別に美味しいとは思わない味だが丁寧な料理だなあ」と思えば美味しいということだし、「嫌いな味つけではないものの雑だよ、これは」と思えば美味しくない、になる。

例えば、そこそこの値段をつける小洒落た流行りの「和食店」で、料理人と名乗る人が市販麺汁を多用しているのを見ると、申し訳ないが、個人的にはそれだけで美味しくないカテゴリーに入れてしまう。もちろん市販麺汁が悪いというのではなくて、ただ、和食店と名乗っている限りお金を支払うべきポイントは調味技術であって、そこを誰でもできる工場品の味にしているのなら、どこにお金を払えばいいのか、と戸惑う。料理人の価値は店舗のプロデュース力にあるのではなくて、料理の腕にあると思っている古い人間なので仕方がない。が、例えば、お洒落な雰囲気にお金を出したいと思うのであれば、そこの料理は美味しいカテゴリーに入ると。ですから、そういうことぜーんぶ含めて、美味しい美味しくないは、個々人の好みと思い込み。

で、本題は家の料理のことです。ご家庭には大抵、毎日の食事を作ってくれる人がいますでしょう。作る人は、時間のある人かもしれないし、時間の無い中で作る時間を工面している人かもしれない。いずれにしても、毎日作るのは大変で、イライラとしながら作ることも多々あるのではないかと思う。

近頃ですね、これに対して「ありがとう」と言おう、的な空気がありますでしょう。「〜さん、〜てくれてありがとう! 」という感じの。あれはどうなんだろうと思っています。

それよりも「あー、美味しいね〜」という言葉のほうが、作った人はうふふと嬉しいのではないかと思う。だって食べるものを作っているんですから。食べものを作ることへの最大の賛辞は「ありがとう」ではなくて、「美味しい」ではありませんか。少々やさぐれた心で作っていたとしても、料理を口にした人が「あ、美味しいねえ」と言うのを聞いて、それ以上心がささくれることはないのではないかと思う。

恥ずかしながら、わたくしは、好みの味ではないものを食べる時に、露骨にそれを顔に出してしまう傾向がある。好きではないものは、これはイラナイ、などとつっぱねてしまうこともある。これはですね、いけない、と心から反省しています。

美味しい美味しくないなんて思い込みですから、「自分が好む特定の味」はそもそも美味しく感じるとして置いておいて、それ以外のものを食する時は、気分次第で美味しくも美味しくなくもなる。ですから、とにかく「美味しいねえ」と言ってみる。そうすると、作ってくれた人は、イライラしていたことや、面倒だなと思っていたことを、ふと忘れてしまうのではないかと思う。これはですね、自らが作るとわかります。で、食卓の場が気づかぬうちに和みます。そうするとですね、食べ物は、多少茹ですぎていようが、味が薄かろうが濃かろうが、少々硬すぎようが、なんでも美味しく感じるものなんですね。

こんな簡単な調味料を使わぬ手は無いなあ、と。最高級塩よりも市販麺汁よりも、「美味しい」という言葉。これだけあれば、ご家庭の食卓は大抵常に美味しくなるような気がする。

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