【番外】「擬似現実」の認識の仕方
頭の中に人が作り出す「擬似現実」ではなく、人間が現実の中に作り出す「擬似現実」ーー例えば役者が舞台上、もしくは画面上に作り上げるフィクションの世界などの話。
役者が自分の体と声を使って、誰か別の人物を作り上げ、その人物たちが架空の現実の中で架空の人生を生きる、というのが「ドラマ」、つまりは現実において実際に見ることができる擬似現実と考えている。この擬似現実との向き合い方は、文化によって(言語によって)異なる。捉え方、認識の仕方がおそらく異なる。
一般論としてだが、例えば英国では、観客はそういう擬似現実が「現実にある存在(役者やセット)が作り上げる偽物」であることを知った上で、自分が「そのフィクションが現実であるかのように騙される」ことを容認している。そこにあるものは、よく現実に似せた架空の世界だという前提を(無意識のうちに・客観的に)認識した上で、その擬似現実を楽しんでいる。
だから、舞台上に繰り広げられる「擬似現実」に「現実」を投影して観ることが容易い。逆もまた然りで、現実の中に「ドラマのような」出来事を見出すことも容易い。
ごく自然に、現実と擬似現実の認識の区分けができるので、現実と擬似現実がとても近しい関係にある。
文字だけで表現されたフィクションに関しても同様で、例えば皆、シャーロック・ホームズが架空の人物と知ってはいるが、同時にあたかも実在の人物だったように扱うことが出来てしまう。架空の人物を役者が現実で表現するのを見ることと、架空の人物が実際に存在したかのように現実を設定することを、感覚的に同列に扱うことができる為で、それにはおそらくその辺りの認識の仕方が関係している。人々が、リアリティ・ショーを比較的うまく咀嚼できるのもまた然り。
対して日本においては、(伝統的には)舞台上に表現されるものは「非日常」であり、現実とはかけ離れた別世界である、という無意識の前提があると考えている。人々は「現実」とは違う何かを体験するために「芝居小屋」を訪れる。幽玄の世界を楽しみにいく。故に、そこに描かれるものは理想であり夢物語であり、現実を浄化(昇華)させたものであることが多く、現実を直に反映させたものであることは少ない。人々がそこに求めるものは現実を忘れさせてくれる一時の喜びであり楽しみであり観念であり、そこに感情移入することはあっても、自らの現実を反映させることはあまりしない。むしろそれを嫌う。
だから、現実と擬似現実の間には常に境界線がある。現実は現実であり、擬似現実は夢物語という意識上の区分けが出来ている。ただし、「夢物語というフィクション」は「娯楽」として現実に根付いていて、非常に身近な存在ではある。かつ、夢物語はあくまで現実とは異なる夢物語なので(擬似現実に現実的な合理性を求めないので)、フィクションは非常に自由だ。こと日本独自の漫画やアニメの物語の自由さや多様性はその辺りから来ている気がする。
こういった「認識の仕方」が世界共通である、と勘違いしたままでいると、話が色々とややこしくなる。
例えば、身近なところでは、日本においては人々は、画面越しに見る「芸能界」を、(作品=フィクション、プロモーション=ノンフィクションの別なく)全般的に「フィクション=理想像=夢物語」の範疇に入れ無意識に「非日常=現実とは異なるもの」と認識している、と考えている。
ただし、全てが主に西洋的な現在の社会の仕組みの中にあって、知識としては、その中にいる人々が、実在している(=現実世界)と知っている。が、「ごく自然に、現実に散在する現実と擬似現実を区分けして認識」するわけではないので、無意識の感覚として、自らがそれを「現実の中にある娯楽=理想の別世界=フィクション」と認識しているかもしれないことには気づかない。
故に、自らが実は「現実の中の娯楽=フィクション」と認識しているものを、あたかも現実を認識しているかのように扱ってしまえる。自らがそうだと思いこんでいる認識と、実際の認識とが合致していない、という奇妙なねじれがある。そしてそれに気づいてもいない。
ある特定の認識の前提の上に成り立つものを、その前提がないままに(もしくは異なる前提がある中に)、形と知識だけ輸入した結果、奇妙なことになっている。日本の「芸能界」がなんだか特殊であるのには、この辺りの認識のねじれが関係していると考えている。
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