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会いたい、から生まれて、さびしい、から死なない。

森の中で、暗く深い井戸の底に石を投げ続けていました。
音もしないので深さもわかりませんでした。

何千個目かの石と落とした時、かすかに、音がしました。

走る、読む、観る。
自分の時間は精神的に閉ざされた空間で過ごす。
・・・・
そんな生活の中で、手のひらサイズの小さな窓からのぞく情景は、確かに存在する社会を感じさせるのです。

たった数行のメッセージでした。
嬉しくて戸惑いました。どれだけ深い井戸なのか、それはまだ水が湧いているのか、それがわかったと言えるにはあまりにもかそけき音。

でも、私にとっては十分でした。
しばらく、瞬きをわすれてしまうほどの。

尾形亀之助は好きですか
そちらの天気はどうですか
悩んでいることはありませんか
ご飯はちゃんと食べていますか

この間、電話をしました。
学生時代、携帯の料金がおそろしくなるほど、夜になれば長電話をしました。

他愛なく、身の回りのこと、好きな映画、旅に出たこと
そういうことを、昼間にも話していたのに夜に電話越しでまた話したく、聴きたくなってしまう。

電話では少し低く聴こえる声。
藍で染められた手織りの柔らかな木綿と、表には絹を合わせた羽二重のような声です。
静かな夜によく似合う音。

一頻り話して、沈黙が訪れました。

「私が死んだら、泣く?」

ふと口をついて出た質問でした。私が死んでも、友人が死んでも、きっとお互い連絡はいかず、知らないままでしょう。

うーんと考える音がして、
「今の自分は、誰が亡くなったとしても泣けはしないと思う。でも、さびしいと思う。あと、先にこの世界から一抜けしてうらやましい嫉妬かな」

友人はそう言いました。

なんだそれ、でもなぜだかそういう気持ちもわかるよ。と私は言って、私は泣けるんだろうか、と考えました。

猫が死んだ時は涙の蛇口が壊れたくらいに泣いたのに。

おじいちゃんやおばあちゃんが死んだ時はうまく泣けなかった。
愛しているとか、大好きだと毎日のように囁き合っていた人たちにも
やがて何にも感じなくなっていって、きっと彼らのために泣くことはないだろうと思います。(もちろん幸せに暮らしていて欲しいとは願います)

・・・・

ちょっと前に、私と子供たちで夕飯を食べにいく車の中で、二人が「死」について話していました。
「死ぬのなんてこわくないよー」と5歳の息子。「なんで?」7歳の娘。

「だって死んだらみんな天国に行くっておともだちがいってたもん、だから天国で会えるし大丈夫だよ」「あーなるほどね」となかなかに面白いことを言っていました。

私にとって死の先は虚空ですが、彼らにとってはまだ先があることなのかと感心しました。

私は意地悪なので、「でもさ、死んじゃったら天国の人と生きている人ではお話ししたり、ぎゅーってできないよねぇ」と声をかけます。

「それはさみしいからやだ!!!」といっていて、でもやっぱり息子も天邪鬼なので「天国には順番にいくし、ひいばあが先に行って待っててくれるでしょ~」と声を上げました。

「でもママとは会えないんじゃないかなぁ」と答えるとはっとして、「それは、ぜったいやだ~~」と声を揃えていました。まだまだ可愛い。

死の本質的な哀しみは、会えないことへの、あたたかい身体にもう二度と触れ得ないことへの『さみしさ』そのものなのかもしれません。

ふと思い出した出来事がありました。

・・・・
娘が3歳の頃、二人で湯船に浸かっていると急に
「娘ちゃんは空から来たんだよ。最初は魚みたいにちいさかったの。ママもそうだったんだよ。ママがたすけてーって溺れていたから、手をひっぱったの。助けるために来たんだよ」と話し始めました。

まだ作り話にしては出来すぎていて、そのまま聴いていると洗面器に湯を張って泡をうかべて遊びはじめました。
洗面器の泡を手で退けると水面が見えます。
まるで空の飛行機から地上をみているようです。
「こういうふうに、お空から見てたの。誰のところに行くかは、神様ときめるんだよ。ママがいいって思ったの」

生命の最初はみんな小さな魚のような姿をしています。

あまりに出来すぎだ、これが噂の胎内記憶なのか、でも胎内よりもっとずっと前のこと。

気になって「赤ちゃんが来るときはどうやって決めているの?」と聞くと

「それは準備ができたよ!て人のところには行けるの。いそがしかったりつかれているとだめなんだよ」

息子とは兄弟になることを予め知っていたのかときくと、

「弟くんは、パパを助けに来たからな~パパをえらんできたんだよね。だからパパは大丈夫だよもう」

ぞわぞわとしました。いろいろ腑に落ちることがあって、妄言だと流すにはそれが当たり前の普通のように語る三歳児はなかなかに興味深く見えました。

「ほんとうは、あんまりこういうこといっちゃいけないって、神様にいわれているんだよね」

と数日後に言って、それからすっと話すことはなくなり、しばらく話したことは覚えていましたが、今はもうそんな話もしたっけ?くらいな娘です。

勘違いかもしれません。でも、私と娘にとってその時間と言葉は本当そのもので、その理由で充分でした。

彼らが来てくれた理由、生まれる理由、人が出会う理由。生き続ける理由。

本当はみんな覚えていて、思い出せないだけなのかな、と思いました。科学では証明できないけれど。龍穴と同じで、見えない世界も存在しているのでしょう。

会いたい、から生まれて、さびしい、から死なない。大それたことではないけれど、生きている理由なんてそれで充分すぎるかもしれないと思いながら、思い切り子どもたちを抱きしめます。

今日もとても暑くなりそうです。ぼちぼちやっていきましょう。


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ミルメルモ。
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