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全ては混然として存在する

我が家に咲いたダリアの花。
こういう言葉を思い出した。
花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」
これは井伏鱒二が漢詩を和訳したもので、
僕は若い頃、この言葉を座右の銘みたいに思っていた。

花が美しいと思う気持ちは当たり前のように思う。
しかし、その真逆のものを美しいと思う人だっている。
美醜や美味しい不味い、暑いのが好き、嫌い、それら
すべてのことは、個人の感じることであり、
そのものの「実態」には、美も醜いもない。
ただ、それはそこに在るだけである。

北海道で起きた猟奇的な殺人事件の裁判の詳報が
報道される度に、なぜそれを報道するのかと
僕は不思議かつ不快で仕方ない。
「普通の感覚」の持ち主だと自負する僕からすれば
それは醜悪極まりなく、マスメディアが公共の電波を
使って、あるいは、ネットニュースなどで報道すべき
こととはとても思えないのだ。
主犯の若い女性、そしてその両親の名前は普通に
報道されているが、この人はあきらかに精神異常者であり、
他の事件と同様、匿名にすべき事案だと思うのだ。
こういった犯罪者は、それを行うことで「性的快感」を
得るのだと思うが、と共に、死とか死体とか体の一部に
おそらく「美」を見出したのだろう。
世の中には「死体写真家」という人も存在するのだし、
青木ヶ原樹海に、毎週通い詰め、ご遺体を発見するのを
趣味としている人もいるそうだ(村田らむ氏のYouTubeより)

なので前述した通り、美醜とか価値観とかはそれぞれ
違ったものであるのだとは思う。
がしかし……
やはり「一般的な価値観」というのは当然あって、
それに則って、社会は表面上は上手く回っているのだ。
なので、それを報道する側、受ける側も、それを
心しておくべきだと思う。
動物を可愛いと思い、草花を美しいと感じる。
そういう当たり前の心でこれからも生きてゆきたいと
昼のワイドショーを見ながら思うのであった。


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