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人と比較し続けた人生から解放された今日までのこと【1】


どうすれば人と比較せず、自分を好きになれるのか。
少なくとも、どうすれば自分を否定せずいられるのか。

今日、これを書いている33歳の私は、やっとのことでその問題を解決する糸口を見つけ、指先にのせたところだ。

今日まで、人よりも全てが劣っている自分に絶望し、何度も死のうとした。
それでも、心のどこかで自分を諦めきれなかった。

今、人と比較することを辞める術を見つけて、人生で1番体が軽い。
今日までのことを、ここにつらつらと書いていこうと思う。

勉強もできない、容姿も優れない「私の今日まで」

私には兄と姉がいる。
二つ上の姉は、容姿端麗で幼少の頃から勉強にもスポーツにも長けていた。

少なくとも私から見て、何もつまづくことなく育ったように見える姉は、中学からエリート学校に行き国公立大学へ進み、部活ではインターハイの選手に選ばれ、現在は誰もが知る一流企業に勤める傍ら、モデル業をしたり会社を経営したりもしている。
絵も非常に上手で、個展を開くほどの腕前だ。
もちろん、同じくよく稼ぎ綺麗な顔立ちの人と結婚し、1人の子供がいる。

兄も小学生の頃から優秀で、部活では主将を担い、現在は家業を継いでおり姉と同じく経営者だ。

私は、幼少期から「末っ子だから、仕方ないね」という呪いをかけてもらっており、それを恥ともせず育っていた。本当にのんびりした子どもだった。

ある日、残念なことにその「末っ子だから」は何も期待していないことを優しく言ってくれているだけなのだと、気がついてしまった。

それは、兄妹の中で私だけ「中学受験しなくて良いよ」と言われたことが、どういう意味だったのかを理解した日のことだった。

私はとにかく勉強ができなかった。
できなかったし、しなかった。
小学4年生の頃、兄や姉と同じくスパルタでお馴染みの進学塾に入ったものの、私はすぐについていけなくなった。

真剣に授業を聞き、どう頭をひねろうとしても、言われていることが理解できないのだ。
算数にいたっては、日本語を話しているはずの講師がフランス語だかドイツ語だかを話しているように感じるほど、理解がかなわなかった。
脳がフリーズし、講師の言葉がすり抜けていく感覚がしっかりとあった。
ガラス玉の上に注がれた水のように、まったく浸透することなく、数字が私の上をただ転がり落ちていった。

そうして、私は右も左もわからぬまま中学受験を放棄することを許され、兄妹で唯一、公立の学校に進むことになった。

自分の容姿を呪うまで

中学入学のタイミングで、母がアイプチを提案してきた。
「その目つきで中学に行くと、ちょっと人から誤解があるかもしれないから」という、なんとも言えない言い回しだった。
手術する手もあるが、まずはこれからやってみたら?と。
私はそれを受け入れ、親から勧められる形でメイクを始めた。
母は悪気なんて全くなかった。優しそうな人だったから、単純に心配だったのだと思う。

一所懸命に「可愛い目つき」を目指し、毎日鏡と向かい合った。
姉は、必死になって鏡に向かう私に「一重の妹は劣勢遺伝子で、私は二重だから優勢遺伝子なんだよ。」と言った。
その頃の私はまだ「劣勢」とは何かあまり理解していなかったが、蔑まれていることは理解していた。
その頃、一世を風靡していた浜崎あゆみのポスターを眺めその大きな二重の目を見つめては、自分の顔を呪い、悲しみ、憐れみ、何度も鏡を割った。

同居の祖母からも「姉ちゃんはきれいけれど、妹ちゃんはちょっとあれだから、来客への挨拶は、姉ちゃんだけでいいんじゃないかしら」などと言われ、客人が来た時は引っ込むように言われていた。
(多分、私の性格も嫌いだったのだと思う。)

その後も「お姉さんは綺麗のにね」と言われ続ける人生だった。
大人になってから、数えきれぬほど美容整形をした。給料の多くをそこに注ぎ込んだ。
それでも、自分の顔が憎くて憎くて、哀れだった。

公立の話は、ダサいから家で話すな

別々の中学に行くようになってからの姉は「公立の話はダサくて聞いていられないので、家で持ち出さないように」と私に伝えた。

今考えれば、そんな言葉を間にうける必要もなかったのだろうけれど、その頃はしっかりと心のど真ん中で受け止めた。
兄も姉も、幼い頃から朝から晩まで机に向かい勉強をしていたので、勉強から逃げた私はそのように言われるべき立場なのであろうと思ったのだ。

たまに突拍子もない言葉を浴びせてくる姉ではあったが、とても優しいところもあった。仲の良い時間もたくさんあった。喧嘩の時には、私だって酷いことも言ったはずだ。
だからこそ、私が間違っているのだろうと思った。

そうして、姉の希望通り、学校で起きた嫌なことも嬉しかったことも、家族に何も話さなかった。
本を読んでいる時間と、絵を描いているだけが救いだった。
それはどちらも、母が私にくれた宝物のような趣味だった。

その翌年に離婚する父母の仲は悪く、食事のときは地獄のような空気だった。
食事の味はほとんどしなかったように思う。
母はその頃から父に内緒でこっそりと新興宗教にハマり、2人になっても何やらよく分からないことを話していた。
学校では友人とうまく行かなくなり、友人を傷つけ、近所のスーパーにいけば壁に「(わたしの名前)しね」と落書きされていた。
徐々に学校で無視されることが増えた。
部活ではずっと補欠で、成績も優れなかった。

私は誰にも何も言わなかった。

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