嘘の多重化とFAKEの世紀
読者の皆さんに紹介したい最新の思想がある。それは天才高校生思想家である稲葉くんによって提唱された『嘘の多重化』という概念である。稲葉という青年は現在高校生ながら、嘘という普遍的にも思える概念の転覆を試み哲学界&思想界に衝撃を与える存在となっている。昨今のディープフェイク技術には目を見張るものがあり、人類は偽造された情報とどう向き合うかという議題を真剣に考えなければならない局面を迎えている。岸田首相の生成AIを使った投資詐欺の広告が国会で問題視されるなど社会問題にもなっており、我々哲学者&思想家も時代の要請に応えるべきだろう。フェイクニュースや陰謀論の話について議論すると、大方の流れとして『情報リテラシーを高めて虚偽の情報に騙されないようにしよう』等の安易な結論に収まりがちである。しかし、情報を作り上げる側の技術が洗練されればされるほど、その情報に対するファクトチェックを行うハードルも上がる。なぜならば、我々は一々エビデンスを確認しなくて良いように、当然の情報や既知の情報は暗黙知として、共同体での共通言語にしてしまう性質がある。共同体には自身と似た性質の人間が集まりやすいので、似通った情報や思想が提示される。その結果、我々は自身が抱えるイデオロギーや情報に無批判になっていく。これをエコーチェンバーという。我々は引きこもっているわけでも鎖国しているわけでもないにも関わらずインターネットにアクセスしエコーチェンバーを加速させる。フィルターバブルというAI側のレコメンドアルゴリズムも相乗効果を引き起こし、我々は各々が信じる陰謀論から宗旨替えを行うことが難しいのが現状である。今回は嘘の多重化を批判的に考察するとともに、我々人類が嘘とどう向き合うべきなのかを考えていきたいと思う。
嘘と嘘の弁証法
嘘について考えるときに避けて通ることが出来ないのは哲学者イマヌエル・カントの倫理学である。彼は『真実を話すことは人間の義務である』として嘘を付く人間の弱さに対して厳格な態度を貫いたことで有名である。彼の規範倫理学は人間の不完全性に目を瞑ったものであり、現代に至るまで様々な哲学者や思想家によって彼の倫理学への批判が繰り返された。人類は貨幣や宗教などの虚構概念を使い文明を発展させてきたわけであり、嘘は人類の強さの要因の一つである。当然、嘘を付かないことを定言命法として倫理学に基礎付けようなどという矛盾した考えは子供でも、そのおかしさに気が付くことが出来るだろう。しかし、そのような議論の他にも『嘘を嘘と見抜くことの難しさ』という問題がある。一次情報に嘘が含まれていれば、二次情報以降は全て虚偽情報になる。伝言ゲームの勝敗は悪意を持つ一人の人物の手によって決定してしまう。カントの倫理学では、その悪意を排除すれば第三者への巻き込み事故を防ぐことが出来るという理屈になるのだろうが、現実は悪意に満ちている。嘘を付く気がなくても嘘を付かされてしまう人々の問題は倫理学の領域ではなく、『真実とは何か』という哲学の領域になる。また『悪意なき嘘』という問題もある。上述したが宗教とは広義の意味で言えば悪意なき噓であるが、圧倒的多数の人間が信じることにより歴史を動かす力を持った時代が長く続いた。科学が発展した現在では、大方の自然現象には科学的原因があることが立証された。世界各国の神話には、雷や雨がなぜ起こるのかということに対する非科学的解釈が散見され数百年前まで我々人類は大まじめにその嘘を信じていた。
最高神ゼウスが雷を起こしていないことは誰にでも分かる。しかし、ギリシャ神話を作った人物は嘘を付いていたのだろうか。そんなわけはない。現象が説明できないことを自分なりの仮説と考察で世界観に仕立て上げたのだ。科学の台頭は人類史上では割と最近の話であり、それまでは宗教やスピリチュアリズムは物事の説明の根拠として一定の説得力を持っていた。科学なき時代には宗教のアンチテーゼもまた別の宗教だったのである。無から宗教を作り上げた宗教家は非常に珍しい。宗教設立のメカニズムとしては、人生のある時期まで特定の宗教に属していた人物が、ある時突然に宗教分派としての新宗教の開祖として独立を宣言するという構図が圧倒的多数である。彼ら彼女らは既存宗教の不完全性を否定して大成していった。嘘が嘘を否定して新しい嘘を作る。歴史は真実によってのみ動くというのは、理論家の空論である。嘘が嘘を塗り替えていく。この陰謀論の連鎖が嘘の多重化の働きであり、稲葉君が真実だけを追い求める不可能性に感じた疑問なのではないだろうか。
ポストトゥルースの先へ
英国のEU離脱や米国大統領選でのトランプ勝利などポピュリズムが世の中を動かす気運を揶揄して、英国メディアは事実を軽視する現代社会に『ポストトゥルース(脱真実)』という名前を付けた。このポストトゥルースという嘲笑的態度には些か疑問を感じる。確かに無批判にフェイクニュースが拡散される世の中には問題があるだろう。しかし、人類はこの世の真理に達したことなど一度もなく、現代は科学的手法が知識開拓の急先鋒というだけの話である。つい300年前まで錬金術なる学問が大真面目に学ばれていた。その前は神学でこの世の全てが説明できるということが西洋有数の知識人の共通認識だった。今の我々も未来際から見れば笑いものかもしれない。だからこそ、我々は真実に至る途上であるという態度を忘れてはいけない。古代ギリシャの賢人であるソクラテスは無知の知という言葉で知られているが、無知の知とは『自分は無知であるという謙虚な態度が尊い』といった意味ではない。『知らないということを知るということは難しい』という意味である。iPhoneを作ったスティーブジョブズは『消費者が本当に欲しい商品は消費者自身にも分からない』と述べている。今我々に不可欠なスマートフォンも、30年前は誰も想像すらできなかった。有ることが当たり前になる前は無いことが当たり前なのである。無い状態では有る状態を想像することは難しい。既存の製品を分解または解析し設計方法を明らかにする手法をリバースエンジニアリングという。そして3Dプリンターはこのリバースエンジニアリングを使って既存製品の造形モデルを作成し量産することが出来る。これは素晴らしい技術であるが、他の可能性を模索し続ける造形者はリバースエンジニアリングの先を行っている。ある日、誰かが作った陰謀論が科学や経済、産業、思想のパラダイムを変更して新しい有るが当たり前になるときがくる。
トランプを大統領にした数々のフェイクニュースは嘘かもしれないが、トランプが大統領になったという事実は本物である。私とのYoutube Live対談で稲葉君は『嘘は発話される度に解釈を生む。例えば意味不明なカタカナ語をいきなり叫んだとしても、そのカタカナ語は第三者の興味を呼び新たな真実を作る』と述べていた。このようなことはヴィトゲンシュタインやソール・クリプキ、東浩紀など様々な時代の思想家によって繰り返し考察されてきたことであるが、稲葉君というZ世代の哲学者にも隔世伝播していることに意義があると考える。
哀しき復讐者 稲葉君
最後に稲葉君の思想について批評していこう。稲葉君は彼の言葉で『嘘の多重化』を説明する動画をX(旧:Twitter)にアップしている。その動画の中では、どちらかというとネガティブな理由から嘘の多重化を提唱したというようなニュアンスが受け取れる。まず第一の説明で『特定の芸能人に対して大麻使用疑惑を提起することで本人が本当に大麻を始める可能性が高くなる』という事例を出している。これは嘘を使って特定の人物を破滅に追いやるという虐めの思想だが、これには明らかな欠点がある。そもそも虐めなどするべきではないが、少数派が嘘を使って多数派を嘘で追い込むということは難しい。個人のついた嘘程度で追い込まれるような著名人はそもそも倒すべき既得権益ではない。かつて新人ヒールレスラーだった木村花はテラスハウスという恋愛リアリティショーの作り出す虚構人格に自身を同化させ、そのキャラクター性をネットで不特定多数から非難されたことをきっかけに自死を図った。巨大な嘘を作り出せたのはテレビ局側であり、木村花自身も恋愛バラエティで悪役になるなど本意ではなかっただろう。女性である以上ヒロインのまま承認欲求を満たせるのならばそれに越したことはないはず。しかし、彼女は恋愛番組で恋愛がうまくいかないイライラを他人にぶつけるという人格未成熟な役を演じてでも社会からの知名度を買おうとしてしまった。言い方を選ばなければ彼女は心が弱いが故に、嘘と真実のギャップに悩み死ぬこととなったのである。稲葉君は二つ目の説明で『皆の力で独我論を展開する』といっているが、嘘は一部のカリスマを抜きには大きな力を持たない強者の理論的性質を持つということを忘れているか、意図的に無視している。嘘によって僕(稲葉君)が有名になる可能性もあるとも述べているが、大きな物語としての虚構は特定の誰かに力を与えるものではなく物語を信じる共同体に力を付与するものである。
学校教育の破壊を嘘の多重化で行う最後の構想は評価できる。学校教育という大きな物語を別の大きな物語で打ち砕くという思想は素晴らしいものだ。学校法人角川ドワンゴ学園N高等学校(通称:N高)は既存の通信制高等学校を未来の学校教育としてブランディングし直した試みである。設立当初はVRゴーグルによる入学式やPCゲームがカリキュラムにあることなどが嘲笑の的になったが、蓋を開けてみれば東京大学や京都大学といった名門大学に卒業生を何人も送り出す実績を上げている。全日制高校に通うことが難しい引きこもり生徒の受け皿になると同時に彼ら彼女らに建設的な未来を提供している。名前をN高等学校という斬新なものにして、やっていることは通信制高校の補強というある意味の噓は、様々な理由で学校教育に馴染むことが出来なかった生徒たちに勇気を与えた。これが嘘の多重化であり、進学校に入学し一日12時間勉強することを良しとしている一部の界隈に対してかなりインパクトを与える結果となった。成績優秀者を共同体に抱えつつも、決してそれだけを誇らない。社会不適合者の方が優秀であるというルサンチマン的負け惜しみを見事に真実に変えた一例と言える。このことからも嘘の多重化は社会変革可能な思想だと信じている。
まとめ
手前味噌ではあるが、嘘の多重化は陽キャ哲学の統合失調症的教祖という構想にも近いところがある。彼には社会や日本を変える思想家になって行って欲しいものだ。カリスマ性と嘘を暴走させた結果、テロリストになってしまった平塚正幸や参政党、嘘を金儲けの手段としてのみ使用する情報商材屋集団の二の舞にならないことを祈る。(なったらなったで面白そうではあるが) それではまた次回の記事でお会いしよう。さようなら。
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