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研究対象との出会い、そして卒業論文

今回は、なぜ今の研究対象に至ったのか、です。

私の専門は、例えばプラトンやカントのような、いわゆる全集が刊行されているメジャーな思想家ではありません。そのため、「なぜ今の研究をしているのか」を問われることがとても多いです。学会の懇親会などで「はじめまして」のときには、ほぼ100%きかれます。

そこで、改めて自分自身に〈研究対象との出会い〉を問い直してみようと思います。


私が一番最初に関心をもったのは、アウグスティヌスの『自由意志論』でした。あまり詳細には覚えていませんが、力強く描かれた人間の意志という能力に魅了されていたように思います。たしか、初めて書いた文章は私と自由意志の関係についてでした。多分。

前回の記事で触れたように、第二外国語でラテン語を履修していましたから、文法書と辞書を片手に、邦訳を側において、羅仏対訳と格闘していました。運良く学内にはアウグスティヌスを専門とする教員がいたこともあって、分からない部分は質問をしたりしながら、必死に勉強していましたね。必死といっても楽しかったです。

アウグスティヌス・ブームは2年間ほど続きますが、ちょうど1年ほど過ぎたときに転機が訪れました。というのも、授業でカントの『講義録』を読むことになったのです。

学部1年次のゼミの担当教員がカントの専門だったことで、1年次は『純粋理性批判』『啓蒙とは何か』『人倫の形而上学の基礎付け』を、2年次には『判断力批判』を読まされていました(今振り返ると、一番しんどかったのは学部1年の頃です)。それに加えて、研究会では『実践理性批判』を部分的に読んでいたので、非常にカント!でした。

けれども、私は『講義録』に出会うまで、一度もカントをゼミ以外で主体的に勉強したいとは思っていませんでした。こんなにカントな日々だったにもかかわらず。

『講義録』、厳密には「形而上学講義L1」は、これまで読んできたカントとは全く違う表情をみせてくれました。今になって思えば、その講義がバウムガルテンの『形而上学』をテクストとしたもので、(正しくはヴォルフ由来の構成ですが)彼による細かな分類が名残として残っている分、内容整理がしやすかったのでしょう。「なんか分かった気がした」わけです。

そして私は、「カントの『講義録』で卒業論文を書きたい!」と思うようになっていきます。それを(後の)指導教官に伝えたところ、「だったら、バウムガルテンにしておきなさい」と助言を受け、その思想家がどれだけ厄介かも、中心に扱うこととなる著作の翻訳がないことも知らずに、足を踏み入れてしまったのでした。

その後、バウムガルテンに関連する先行研究を読み漁るなかで、アウグスティヌスとバウムガルテンの緩やかなつながりがみえてきたりもするようになり、そのまま卒業論文へと突入していきます。

卒業論文のタイトルは、「バウムガルテン『形而上学』第四版 (1757) における〈subiectum〉の分析」です。先に触れたように、もともと〈意志〉や〈私〉といったテーマに関心があったこともあり、バウムガルテンにおいて〈私〉とは何かを問いとしてたてました。しかしながら、実際には『形而上学』中の〈subiectum〉の用例を全て挙げて、ひたすら意味の分析を行うだけのものでした。そのため、今でもデータとして卒業論文を見返したりしますが、そこには全く主張がなく、調べました!卒業論文になっています。


振り返ってみると、思想家に対してはあまり積極的な動機付けがなかったことが明らかになってしまいましたが、その一方で〈自分のなかにある素朴な問い〉はずっと変わらずに続いていることに気付くことが出来ました。私の場合は〈私〉をめぐる問題群になるのでしょうか...。

アドバイスが出来る立場ではありませんが、これから卒業論文を書かれる方は、ぜひ同期の友人や先輩・後輩に相談しながら、〈自分のなかにある素朴な問い〉を鮮明にして、それを軸に頑張ってほしいと思います。あとは、せっかくなので自由に言いたいことを書きましょう!



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