残酷な休日、休日は残酷
休日をお過ごしの皆様、ごきげんよう。
労働の渦中にいる皆様、ごきげんよう。
かく言う私は6連勤明けの休日平社員である。
休日とは残酷なものである。
何故なら労働なしには休日は存在し得ないからだ。
皆様は労働とは何かご存じであろうか。
"社会"という強制加入大規模宗教団体に所属している方々ならよく知っていると思う。
労働、それは過酷なものである。
その労働から解放される日が休日である。
それはとても尊く、美しく、砂漠のオアシスよりも渇望されるものである。
社会人は皆、躍起になりこの「休日」というものを追い求める。
休日に趣味に興じたり、ここぞとばかりに惰眠を貪る者は少なくない。
また、休日の食事や酒は格別である。(あえて格別なものを選択する場合も多い。)
いつもと同じことをしても、「休日」においてそれは特別なことになる。
嗚呼、とても素敵な休日、みんな大好き休日、愛してるぜ休日
ではその休日を得るためにはどうしたらよいのだろうか。
それは、「労働する」以外に得る手段はない。
労働があるから休日が存在する。労働を行ってないものには休日は与えられない。
厳しいようだが、労働なしでは日々とは何も特別なものではなく、毎日が"何もない日"となる。
また、労働の日数は休日の日数より必然的に多くなる。
月に2回しか労働しなければ、それ以外の日は全て休日だろうか。
私は違うと考える。
定義は置いておいて、人が休日を休日と感じるためにはある種の特別感が必要である。
前述した"休日における特別感"は
特別感を感じる日に行うこと=特別である
というメカニズムで生じると考えることもできる。
つまり月2回の労働の日こそ特別な日(すなわち休日)となるのだ。
それ以外の日に副業などをしておらず、特に何も予定もないとなるとそれはそれで過酷ではないだろうか。 (過酷=労働と捉えるのは飛躍しすぎか。)
我々が渇望する休日は労働が無ければ得られない。
労働からの解放を願ってしまうと休日を得られなくなる。
…まぁ、あまり考えずに今日の休日を楽しみ、明日の労働に努めよう。
せっかくなので戯れに今日の休日でも記しておこう。
朝、いつもより遅めに目覚め、洗濯と前日の洗い物を片付ける。
スマホや本をだらだら眺めて昼過ぎにシャワーを浴びる。
ゴミ出しついでに酒とゲームと日用品を買いに出かける。
酒と日用品を求めて行きつけのリカーショップへ。
こちらのリカーショップは日用品も取り扱っており、ダイソーとも複合されているため利便性が高い。
そこでジンを物色。
労働の渦中にいる店員さんの後ろでしばらく購入品を吟味する。
結局購入したのは「サイレントプールジン」であった。
レビューはまたの機会に。
そのあと、ハードオフ、ブックコオフを巡り、レトロゲームやジャンク達に癒される。
ホビーオフでガンダムが売られていたことが印象的であった。
セブンティーンアイス(カスタードプリン味!)を貪りながら帰路につく。
15時過ぎに帰宅し、プルコギを作って遅めのランチとした。
そしてなんとなくこの記事を書いて今に至る。
夜は一人でラーメンでも啜りに行くことにしようかなというのが今のところの気持ち。 (嫁は不在である。はよ帰ってこい。)
そんなこんなで私の特別な日が流れていく。
さて、明日は労働だ。特別な日を目指して楽しく働いてみようかなぁ。
なんてね。