[読書の記録] プラトン『国家』(2013-03-08読了)
私は、コミュ力つけたいんだったらセックスしろという所謂宮台テーゼと、それに対する「恋愛/セックスより楽しいこと見つければいーじゃん」という内藤理恵子さんの批判にインスパイアされ、「まあ確かに恋愛しなくてもコミュ力はつけられるかもなー、、しかしそれでも恋愛からしか学べないことはあるのでは?」という問いを立てた。
まずエーリッヒ・フロムによる「愛するということ」を検討し、人を愛することは特殊スキルであり、そこから導かれる恋愛の意義は全人格的に手に入る幸福と平和だという暫定的な答えを得た。
いっぽうでこのラブ&ピースな回答に対して、「恋愛は資本主義的抑圧にまみれた世の中への抵抗だ」という不良的なマインドを持ったマルクス主義者ハーバート・マルクーゼの「エロス的文明」の検討も行った。マルクーゼは現代文明を少しでも抑圧から解放するためにはプラトン的な愛の回復が必要だというのだが、この本からだけでは少しプラトン的愛の意味がいまいちわからなかった。
そこで、私はこの本に立ち返った。プラトン『国家』
一般教養の講読で買わされた大学生の本棚にもあるような超古典だが、教養課程が終わっても売らずに持ってると本棚全体が締まる本である。
タイトルは国家だが、国そのものの話は実は半分くらいしかない。むしろ最初は個人の善き生とは何か?という話が結構長く続いて、ソクラテスがいろんな人にツッコミを受けているうちに、じゃあもっと大きいスケールでの善について考えることからスタートするほうがすっきりするでしょう、という流れで国家における正義の話になる。そして国家というマクロスケールな裏付けを得た正義を個人の生にもういっかい適用する、という構成になっている。
結論としては、善き国家においてのみ個人の善き生が可能であるということが述べられている。一見右翼っぽいが、もちろんここでの国家は現代のわれわれがイメージするような近代的なネイションステートではなく古代ギリシャのポリスだ。プラトンは腐敗したポリスの政治に対する絶望から哲学を志した。
いずれにせよ個人の生が、より大きな「社会」と依存関係にあるという議論は、考えてみればマルクーゼの議論と対を成していることがわかる。マルクーゼが現代を生きるわれわれのより良き生のために、現代文明における回復を謳ったプラトニック・ラブだが、その語源となっている「プラトーン」という言葉はもともとギリシャ語で「幅広い」というような意味である。プラトニック・ラブ=射程が広い愛、つまり、 アッー!♂の世界だ。プラトンはポリスに絶望するとともに、普遍的少年愛♂にハマっていたのだった。同性愛は遺伝を原因とするのか環境を原因とするなのか諸説あるが、男性の場合は4〜5%が同性愛者(女性は約2%)とする説が有力である。
しかし実際には、同性愛と異性愛の間に線引きすることは難しいというのが私の考えだ。例えば泣ける名画『ブロークバック・マウンテン』においては、主役の男性2人が、心魅かれる相手に出会ったしまったことで目覚めてしまったという描き方がなされている。世にいう大器晩成型のゲイ。
とにかく同性愛と異性愛は別の世界ではなく、誰しも程度の差こそあれホモ的な面とヘテロ的な面をもっているということは確実だろう。。。と思う。
イヴ・セジウィックは『男同士の絆』においてホモソーシャルの概念について解説しており、それによればホもソーシャリティとは同性愛嫌悪とミソジニーを同時に内包する男同士の絆を意味する。男子校社会に典型的だが、ホモソーシャルな世界では、男たちは同性愛を嫌悪し異性愛を指向しながらも、そのいっぽうで、男同士の世界に女が入ってくることを嫌う。
しかし、誤解を恐れずに言えば、男同士の友情は同性愛ときわめて近い というのが私の考えだ。ブロークバックマウンテンに話を戻すが、2人が川できゃっきゃとはしゃいだり、全裸でガケから飛び降りたりするシーンがあるが、こういう野郎盛り上がり的なノリは、同性愛的な男性でなくても特に男子校などではよくあるだろう。(私の周辺のサンプルを見る限り、男子校出身者は飲み会でもすぐ服を脱ごうとする傾向がある・・・)
あるいは日本のマンガ『坂道のアポロン』においては、ジャズを媒介とした2人の男子高校生の友情が描かれているが、ネット界隈ではこれがガチホモマンガであることが根強く指摘されてきていた。2人が一緒にジャズを演奏し、インタープレイで盛り上がるシーンはもはや擬似的なセックスシーンにしか見えない。ブロークバックマウンテンでは、それが直接的に描かれていたに過ぎず、この2つの作品に本質的な差は無い気がする。ただ、アポロンでは、2人の主人公と三角関係になる律子というヒロインの存在によって、同性愛物語であることが巧妙に隠蔽されているのである。
より重要なのはなぜカモフラージュが必要か?ということだ。あるいはなぜブロークバックマウンテンはあれほど絶賛されながらオスカーを受賞できなかったのかというその理由である。
プラトン的愛は現代文明のもとで抑圧されているのは明らかだ。
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