マスメディアとのつきあい方
ども、か~まいんです。
今回はものづくりから少し離れたお話しです。
最近、マスメディアと言われている方々への批判を多く目(耳)にします。
不特定多数への情報発信が、TVや新聞などの大手メディアでなければ不可能だった時代が終わり、今は個人がSNS等で簡単に情報発信ができるようになりました。
マスメディアの記事が、現場にいた一般の方からの情報発信によってその恣意性が暴かれ、自分達がオピニオンリーダーであるという彼らの自負と驕りが打ち砕かれる様を、勧善懲悪の爽快なエンターテイメントとして楽しんでいる方も多いことかと思います。
私が初めて大手メディアの記者の方と関わったのは、ソ連崩壊直後のウラジオストックでのことです。
私は、とある事業でウラジオストックにある病院と老人ホームに相当する施設を訪問することになったのですが、それには大手新聞社の記者が同行していました。
老人ホームにいらした1人の老婦人が、我々が日本から来たことを知ると、流暢な日本語で「さくらさくら」を歌ってくださいました。
大戦中に抑留されていた日本人の方に教えてもらったのだそうです。
その時、同行していた記者の方が、歌っているご婦人にカメラを向けると、突然シャッターを切り始めました。
ご婦人は少し驚かれて、写真を撮るのであれば、と、ブラシを手にとり、髪を整えようとされたのですが、それを待たずに写真を収めた記者の方はさっさとその場を立ち去っていきました。
その時のご婦人の悲しそうな顔を、私は今でも思い出すことができます。
次に私がマスメディアの方との関わりをもったのは、あるセレモニーでのことです。
過去に例のない顕彰を行うことになり、私はその責任者を任されていました。
当日の式典は会場が小さかったこともあり、TVや新聞のカメラがこちらの指定したラインに隙間なくびっしり並ぶことになりました。
顕彰される方の地元のミニコミ誌や、ケーブルTVの方も取材に来られていたのですが、撮影の位置取りはすべて記者クラブが仕切っており、彼らの入る余地はありません。
実際の式典が始まる前に、報道関係者に向けてこちらから式典の流れとカメラの位置の確認を行います。
私は、顕彰の主旨から、賞を授ける側が、受賞する方のところに出向いて感謝の意を伝えるという演出でシナリオや位置取りを準備していました。
賞を渡す側が受賞者を前まで呼び付けるというのは、本来の顕彰の意味から考えて、何か違うなぁと感じていたからです。
流れを説明したところで、記者クラブの方から物言いが入りました。
それでは「絵にならない」ので、受賞者の方を呼んでカメラの正面で賞状を渡してもらわないと困るとのこと。
私は前述のとおり、顕彰の主旨から、賞を受けていただく方に授ける方が出向くことで感謝の意を伝えたいことを説明したのですが、報道側はそれでは納得できないとのことで、最後は声を荒げての口論になってしまいました。
「そんな思いとか主旨とかどうでもいいんだよ!絵にならないじゃないか!」
私の上司と、広報チームが間に入ってくださり、最終的には報道側の意向をくんだ方向でリハーサルを行い、実際の式典を実施することとなりました。
口論をしていた時は報道側の傲慢さに腹を立てていたのですが、冷静になるにしたがって、私は少しずつ報道関係者の方達の考え方を理解しはじめました。
彼らは、単純さを求め、複雑さを嫌います。
それは「複雑なもの」は、報道を受け取る(我々)一般の人々に上手く伝わらないことを彼らはプロとして良く知っているからです。
今回の場合だと、どれだけ現場で感謝の気持ちを込めたとしても、それがわかりやすい絵(映像・写真)にならなければ、その場にいない大多数のメディアの先にいる人達には伝わらない、それを伝えなければ意味が無い、というのが彼らの価値観です。
先のソ連の話でいうなら、身綺麗に髪を整えた老婦人ではなく、身だしなみも整わない老婆の姿を「絵」にするほうが、崩壊後の混乱の中にあるソ連という、わかりやすい(ステロタイプな)記事に付ける写真として適しているということになります。
マスメディアの方は、当事者感情よりも情報を伝えることにはるかに重い価値を置いている。
その姿勢に共感できるかどうかはさておき、彼らは彼らで、報道する、伝えることに使命感をもって、物事の優先順位を決めています。
所謂ジャーナリズムの精神というヤツです。
私は彼らの姿勢に全く共感はできませんが、ジャーナリズムの在り様は理解したいと考えています。
単純に彼らの傲慢さを一方的に批判するのは何かが違う。
優先すべき物事が私と彼らで異なるだけのことなのです。
これを理解してから、マスメディアの方に対する対応が変わりました。
ようは自分が伝えたいコトと彼らが伝えたいコトをすり合わせるために、彼らが伝えやすい単純化した「絵」をこちらが用意すれば良いのです。
例えば、寂れた地方の商店街が町おこしのためにクリスマスのライトアップを始めた時のこと。
そんな過疎地では、ライトアップが絵になる日没後の時間には、ほとんど人通りがありません。
人が誰もいない商店街にイルミネーションだけが煌々としている景色、これでは寂れた様子が強調されるだけです。
その時は取材に来ていただいた地方部の記者さんと相談して、急遽うちの若手2名を即席のカップルに仕立てあげ、楽しそうにイルミネーションを見上げている仲の良い恋人たちの後姿が某新聞の地方欄に掲載されることになりました。
これを「絵作り」というか「やらせ」というか、人によって評価が分かれると思いますが、少なくとも記事にとりあげてほしい当事者の意向と、取材した側の伝えたい内容が一致していることには間違いありません。
おそらく、この手の話は多かれ少なかれどこの報道現場でも行われている事だと思いますが、これまでマスメディアという第4の権力を監視する機関がなかったために、各メディアのそれぞれの論調や思想を表すため、自制心を欠いた極端に恣意的な絵作り、やらせを行ってきたことのツケを、彼らは今支払う時期がきているのだと思います。
報道という第4の権力を監視するすることができる第5の権力(スマートフォンとSNS)を我々は手に入れました。
今のところ、この第5の権力は、巨悪であるマスメディアの悪事を暴く正義の剣として、その力を振るっていますが、さて、この報道=巨悪という単純化は、政治・行政=巨悪としてこれまでのマスメディアが批判してきた構造をそのまま辿っているように思えます。
この単純化は、わかりやすい(ステロタイプな)話を我々が求めた結果でもあり、先にも書きましたが彼らの傲慢さを責める前に、考えることがあるのではないかなと思うのです。
折角我々が手にした第5の権力ですが、第4の権力の二の舞を演じることがないよう、自制心を持って振るっていきたいものです。