きゃり子という名前の話
さてまた登場しました。きゃり子です。
前回の通り、18歳からの私の経歴を思い出せるだけ記そうと思います。半分自分のために備忘録として残せるいい機会なので、きっと長くなることでしょう。
暇なら見てね。
新潟県で生まれ、18までずーっと新潟県民。
地元は新潟市の中央区、なかなかの地方都市。住むには最高。でも当時高校生だった私には物足りませんでした。東京に住みたい!キラキラしたい!(?)というだけで上京、千代田区にある共立女子短期大学に進学しました。
東京ではとにかくやりたい事をやり尽くしました。
明大のインカレサークルに入り、バイトは3つ掛け持ち。1シーズンに1回はディズニー、夏はキャンプで富士山へ。大好きな俳優に会えるかを数珠つなぎ方式で試してみたりしました。
そんなゆとり世代ど真ん中、人生イージーモードだと思っていたところにとんでもない出来事が起こりました。
リーマンショックです。
当時就活が始まるところだった私には大ダメージ。2年生になり、内定・内々定が続々と取消。そもそも新卒募集してない企業までありました。遊びすぎて単位もろくに取れていない私は「卒業できる見込みなし」と雇ってくれる以前に面接さえ受けさせてもらえませんでした。
新卒というパッケージを捨て、フリーターになったらこの東京の2年はなんだったのか、親にはなんと言われるだろうか。遊び続け、向き合うべきことから逃げ続けた自分には当たり前すぎるツケが回ってきました。
人生いつまでも楽しいことだけなんかできないもんです。どっかで戦わないといけない。それが私の人生でまさにここでした。志望していたアパレル業界はそもそも募集が少ない。悩んだ末にいつも読んでいた雑誌の後ろにあるindexの会社を上から順に電話して「来年4月入社の募集はしていますか?」と電話しまくりました。笑
結果、11月に某アパレル会社から内定をもらい残りの2ヶ月間クラスの皆に助けてもらいながら課題を作り必要単位を満たし無事に卒業することができました。
とまあなんとか新卒採用で入社できたものの入社半年で経営不振によりショップが閉店、会社は倒産するしかないという状況になり、運良く自店舗の隣にあった別の会社のショップで働くことになったのですが。笑
結果そこで2年働き、事情があって新潟に帰り長岡市に移住、ここでもありがたいことに縁あって長岡駅のスタバで約2年近く働くことになりました。
さて、長岡に住むはずだった私はまたここで事情があって実家のある新潟市に戻ることに。不本意なUターン就職です。ここまでずっと働くこと自体にもう正直疲れていました。
ていうか、私って何ができるんだろう?学生時代に業界研究もろくにせず、インターンもせず、つまるところ私は「世間知らずの23歳」になっていました。
もっと世間を知らなければ。と思った私はここで一般企業で修行しようと決めました。そして何があっても3年は続けよう。もう1回勉強し直す気で。
とはいえ本格的に仕事を探したのが就活以来なかったので、とりあえず求人誌を開くことしかできませんでした。笑
そこで見ていたタウンワークにあったのが
【このタウンワークを作る仕事を一緒にしませんか?】
【地元新潟を元気にするお仕事です!】
というリクルートジョブズの求人広告でした。
応募条件は高卒以上。そして何よりあの大手リクルート。世間知らずで身の程知らずの私はすぐに応募し、そして何故か採用されたのです。これはあとから聞いたのですが、いちばんの採用理由は「地元が中央区」だったからだそうです。笑
入社して速攻で支社の方々が歓迎会を開いてくれました。もうコンプラ関係で廃止されたと思いますが、そこでは当時新人さんの呼び方を決めており、私が今回その対象でした。採用された時の私は、ほぼ金髪のボブでバチバチのまつ毛というおよそ一般企業にこれから働くような人間の外見ではなかったため、当時話題になっていたきゃりーぱみゅぱみゅから「きゃりー」という新たな名前をいただいたのです。この日から約6年にも渡り「きゃりー」や「きゃりこ」と呼ばれるリクルート人生が始まりました。
さて、こうして採用された私が初めにやった仕事、それは電話対応です。
とはいえ営業で採用されたわけではなく、アシスタントだったので掲載していただいたお客様に広告を出した結果をお伺いする電話。しかし今まで接客業で直接お客様と向き合って会話していた私は顔も見えない相手と話す、という難しさに速攻心が折れました。
最初のノルマは1日30件の有効接触。
労働時間が7時間半のうちに30社の責任者と話す。
営業して商品を売り込むわけでもなく、商談するわけでもないのに当時の私にはとてつもなく高い目標でした。そしてその目標が入社して2ヶ月経っても達成できず、見かねた上司がミーティングをしてくれました。
リクルートという会社のすごさをはじめて知ったのがこの時です。
「できないこと」を悪とせず、まずなぜ出来なかったのかを話させ、それをもとに「どうすればできるのか」という解決策とマイルストーンを作り、日々の業務の細部まで数字に落とし込み、目標設定をするのです。
私の場合は電話口で話す事を何パターンか事前に決めて内容を整理し週で1日30件、ということで午前10件の午後20件。まずはここの目標で動いてみようか!というミーティングでした。アパレル時代ノルマが達成できないことにただ怒られてきたので、やばい絶対怒られると思っていただけに驚きました。
このあと営業に業務が変わり、育成担当の上司が変わってもこの流れはずっと変わらず、出来ないことや苦手なことは「伸びしろ」という名前になり、達成するために徹底的に原因を追求し数字に落とし込む、というミーティングを毎日同じ時間に育成担当と1日の業務を振り返り続けました。
営業になってから半年はこの日々の振り返りと半年に1度くらいで本社研修を行い、1人前になります。それからは毎週営業チームのリーダーと毎週の振り返り。自分の設定した目標であるKPIとKGI、売上の作り方を話します。
私の所属していたジョブズは毎週校了締めがある週刊誌。ぶっちぎりで売れまくる週もあれば、全く売れない週もありました。全国の達成率ランキングに載る事もありましたが、正直私は基本的に問題児でした。笑
アツくなりすぎてお客さんと喧嘩したり、ちゃんと時間を握れず原稿を落としたり(締め切りに間に合わず売上がマイナスになること)、飲食店の原稿作成や商談を日付が変わるまでやっていたりなんて事もありました。
最後のところに関してはタイマネが見直されて今は禁止ですが…
なにか問題を起こすたびに向き合ってミーティングしてくれて逆にハイ達成するとちゃんと褒めてくれた先輩や上司。
優秀すぎて突き上げの半端ない後輩達。
私の発注書を解読して原稿作成をしてくれた制作担当さん方。
つらくてどうしようもない時や今日はやり切ったぜ!という時に退勤後に飲みに付き合ってくれる新潟支社のメンバー。
こうして毎週誰かに助けられ、時に自分が助ける事もありながらいつの間にか「きゃりー」はきゃりー「さん」という敬称が付き、ひたすら毎週原稿と締切と数字と戦っていました。
三十路が目前に迫ってきた頃。戦い続けることに疲れ、改めて自分のやりたいことを考えたいと思うようになりました。そしてそろそろ整理したい、ということで2019年3月に5年7ヶ月働いたリクルートを卒業しました。
しかしなんだろう。私がやりたいこと。
確かにジョブズにいて社会人としての勉強にはなったけど。自分ができたことが仕事に生かせればいいなぁ。
…あの時の自分と同じような若い子もいるんじゃないか?
という考えに至りました。
社会を知りたい、でもどうすればいいかわからない。
そういう子のお手伝いがしたい、と人事系の仕事か働く中で地元が大好きになった私は新潟の広告系の仕事もないか探してみることにしました。
とはいえ、人生そんなにうまくいかないもので人事系は人事経験○年以上、広告営業は4大卒か免許必須。もう普通の事務にでも…となっていた時に見つけたのが学校の事務員募集でした。
社会に通用する実践力が身につく学校、、、地元に帰ってきた時の私が知りたかったことが学べる学校がまさかこんな近くにあったなんて!
ある意味衝撃で運命だと思いました。
そしてご縁あり、現在に至ります。(追記:2021年10月に退職。現在は古町の民)
何も考えず遊んでいたい、好きなことだけやっていたい
そう思って若い時はずっと生きていましたが
きゃりーとして働いて修行してから
出来ることが増えて、たくさん出逢えた人がいました。
出来ることが増えるとやりたい事も増え
会いたい人にも会うことができました。
その人と仕事をしている時は何よりも面白く、楽しく仕事ができました。
仕事が楽しいと、人生が楽しい!
リクルート時代のメールの署名に私が書いていた言葉です。決して自慢できる営業マンではありませんでしたが、新卒ショップ店員の頃と比べると何倍も楽しく働けていました。社会人のマナーから基本を叩き込んでくれたリクルートには本当に感謝しかありません。
これからもあの頃の自分を忘れずに、今の仕事を楽しめるよう新たに修行していこうと思います。
少しずつ書いていったらとんでもない長編になってしまった。笑
明日も元気に仕事を楽しんでいきたいと思います!
拙い文書にお付き合い頂き、ありがとうございました。