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そんなこと、どうでもいい。



目に映る世界を見守るような笑顔。
堪えるようにぎゅっと寄った眉間の皺。
なにかを決めかねるようにさまよう視線。
涙は流れているのに無理矢理に上げられた口角。

「こえ」という言葉を見て、頭に最初に浮かんだ記憶は誰かの話し声や歌声ではなく、たくさんの無音の瞬間だった。


そのときどきに出会った人たちが共有してくれた無音の瞬間。

なぜ私はこれを声として記憶しているのか。

一瞬だけ不思議に感じて、気が付いた。

私は発せられた声だけではなく、表情や雰囲気、なんなら場の空気感も含めて「その人がそのときに発した声」だと認識している。

だからこそ声や言葉を発していない無音の瞬間も、私にとっては誰かの大切な声や言葉としてカウントされているのだろう。


だけどなぜ、私にとって象徴的な声が無音なのか。

これはたぶん、無音の瞬間=あわいにこそ人の本質が浮かび上がると私が感じているからだと思う。


言葉や声は濃くしたり薄めたりすることが出来る。

場合によっては思ってもいないことに同調の返事をしたり、嘘をつくことも出来る。

私自身は思ってもいないことに同調したり嘘をつくことはあんまりない。

けれど、つまらない人だと思われたくない、頭が悪い人だと思われたくない、空気ぐ読めない人だと思われたくないといった理由から、言葉や声を濃くし過ぎたり薄め過ぎたりして、あとから振り返るとちょっと後悔することもある。

なんなら話している最中から「ああ、いまの私の言葉や声、めっちゃ薄っぺらくて中身がスカスカやわ」と反省モードにはいるときもある。


だけど、言葉や声と比較すると、あわいを完璧に取り繕うことが出来る人はほとんどいないのではと私は思う。

だからこそ私は無音の瞬間がうまれたとき、さり気なくゆっくりと、五感を空間全部にめいっぱい広げる。

すると、たまーにあわいの隙間から、その人の純度の高い「こえ」が滲み出てくる瞬間がある。

私はその瞬間がとても好きだ。

つまり、本質フェチなのだ。

正直、その人の純度が高い部分に触れることが出来たのなら、話や会話の内容なんてどうでもいいとすら感じている。

どれだけ知識に満ちあふれた言葉や声であっても、その人自身を感じられないのならば、頭に記録されても心には記憶されない。


2倍速で動画をみたりするタイパ重視の今の社会では、そんなあわいを楽しむような悠長なことを言っていたら知らないよと言われてしまうかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

今、目の前にいてくれる人の「こえ」に触れることこそが、私にとってはよっぽど価値のあることなのだ。

だからこそ、うまくなくてもいい。
まずは私が目の前の誰かに出来るだけ、純度の高い「こえ」を届けていきたい。




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ERIKA TAMADA*Care Space たま屋
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