『流刑の神々』
ドイツ・ロマン派の詩人ハインリヒ・ハイネに、『流刑の神々』というエッセイがある。日本では岩波文庫から『流刑の神々・精霊物語』という書名で出ている。
わたしが、家族三人でハイデルベルクに長期出張した時、真っ先に悩んだのが、日本語の本を持っていくかということだった。ドイツにも日本語の書籍を扱う書店があることは知っていたが、ハイデルベルクのような小さな町にあるとは思えなかった(実際なかった)し、あってもおそらく観光客向けのパンフレットのようなものが中心だろうと思った。文庫もあるかもしれないが、岩波文庫が揃っているとはとても思えなかった。あってもバカ高いに決まっている。だから現地でまともな日本語の書籍を買えるとは思えなかったので、それなら最低限の本はもっていくしかないと考えたのだった。
だが、ドイツに家族で行くというのに、日本語の本を抱えていくというのもおかしな気がした。ドイツに行くからには、ドイツ語で、あるいはせめて英語の本を読むようにしたいと考えた。日本ではドイツ語の本は限られていてなかなか入手できないから、これは絶好の機会だと思えた。そして、日本語の本を持っていけば、どうしてもそれを読んでしまうから、できれば持っていかないほうが良いと思った。持っていかなければそれだけ荷物も軽くなる。
とはいうものの、活字中毒の自分が、日本語の本なしで生活していける自信はなかった。さんざん考えた末、五冊では多過ぎるが、せめて二冊あるいは三冊だけは文庫本を持っていくことにしようと考えた。
さて、では一体何を持っていくのが良いだろうか? 外国で日本の文章に接すると考えたとき、真っ先に古典文学が頭に思い浮かんだが、徒然草も枕草子も源氏物語も読んだことがないのに、いまさら古典など持っていっても意味はないだろうと思って却下した。
ドイツにいて日本語に触れたいときは、やはり普段から良く読むタイプの文章を読みたいはずである。1997年にはすでにネットで新聞が読めたから(駅の売店でも売っていることは知っていた)、ジャーナリズム的なものではなく、日常的に読むもの、ということで、結局電車の行き帰りで普段読んでいる文庫本ということに落ち着いた。
というわけで、選んだ一冊目がハイネの『流刑の神々・精霊物語』だったのである。ハイネの文章はなにより読んで面白いし、内容も楽しい。現地で読めばまた新たな感動を味わえるかもしれないし、聖地巡礼だって可能だろう、と思った。日本では原書がなかなか入手できないので、できれば原書も買って帰りたいと考えたのだった。
もっとも、いつものことだが、選びに選んで携行した本はまず開くことがないものだ。『精霊物語』も御多分にもれず、ほとんど開くことはなかったように記憶する。
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