ながさご大介
なぜか旅行記が読みたくなった。理由が分からないまま手当たり次第に著名な旅行記を渉猟しはじめたわたしは…
ハイデルベルク行のトランクに詰めた三冊の文庫本の最後の一冊は、モンテーニュの『エセー(五)』だった。 岩波文庫の『エセー』を見つけた日のことはよく覚えている。それは1977年4月のことだった。大学の教養のキャンパスが習志野にあり、家からは通えないので、生まれて初めて一人暮らしをすることになった。賄い付きの学生寮で大学の近くにあった。最寄り駅は北習志野駅だった。 当時のわたしは、毎日書店に行くのが習慣だったので、引っ越した日だったか翌日だったかは忘れたが、まっさきに駅から歩
ハイデルベルクに持っていく二冊目に選んだのは、『斎藤茂吉随筆集』だった。 斎藤茂吉は『赤光』で有名な歌人だが、医師・医学研究者でもあり、ウィーンに長らく留学していた。その時の思い出を綴ったエッセイがいくつかあり、『ドナウ源流行』や『探卵患』もそのひとつである。 『探卵患』は、1922年12月27日の出来事を綴ったものだと著者は書いている。このタイトルは、著者がその時手帳に記した文字に由来するものだということだが、それ以上の説明はなかった。ネットで検索してみると、正確には「
ドイツ・ロマン派の詩人ハインリヒ・ハイネに、『流刑の神々』というエッセイがある。日本では岩波文庫から『流刑の神々・精霊物語』という書名で出ている。 わたしが、家族三人でハイデルベルクに長期出張した時、真っ先に悩んだのが、日本語の本を持っていくかということだった。ドイツにも日本語の書籍を扱う書店があることは知っていたが、ハイデルベルクのような小さな町にあるとは思えなかった(実際なかった)し、あってもおそらく観光客向けのパンフレットのようなものが中心だろうと思った。文庫もあるか
九月末で退職する女性からマドレーヌを貰ったので、わたしはお礼のつもりで「パンがなければマドレーヌを食べればいいんだよね」と言った。 でも、言いながら、(そうじゃない、マドレーヌはプルーストだろう)と心の片隅で叫ぶ声が聞こえた。 マリー・アントワネットは「ブリオッシュを食べればいいじゃない」と言ったのだ。 しかもそれはケストナーが『点子ちゃんとアントン』の中で語ったおとぎ話で、そんな史実はないのだった。 マドレーヌはプルーストの『失われた時を求めて』の重要な小道具のひと
オペラを一度生で観たいものだと、大学で同級だったオペラ狂のMに言うと、ウィーンから有名なオペラ歌手が来てリヒャルト・ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』をやるといった。 それは主役だけが外国人で、あとはすべて日本人なので、値段もお手頃なのだということだった。それでも、三階の桟敷席のようなところで5千円もした。 独身時代のことで、母に話すと観てみたいと言い出したので、Mに言ってチケットを追加してもらった。 それまで、オペラのレコードはいくつも聞いたことがあっ
ハイデルベルクに行くことになったとき、同じ研究室の女性から、彼女の親しい研究者仲間のK先生がハイデルベルク大学に留学中だといって連絡先を教えられた。1997年のことである。東欧の公衆浴場についての新書を出版されたばかりで、奥さんと幼稚園の娘さんの三人でハイデルベルクの街中の一軒家を借りて住んでいるということだった。 K先生に実際に会って話を聞くと、その四月から一年間の予定で来ており、当初の予定では三月に完成する大学のゲストハウスに入居するつもりが、できていなかったので民家を
結核ではないことを証明しないといけなくなったので、とりあえず抗生物質を処方してもらった医者に再び行くことにした。そこは、看板をよく見ると消化器内科が専門の診療所だったので若干の不安はあったが、実家から最も近い診療所だったのである。 医師には、他に言い方を思いつかなかったので、ありのままを正直に話した。咳がとれないが、実は幼稚園の入る前に結核になったことがあるらしく、古い病巣があって、レントゲン検査で指摘されることが多かった。ここ十年ほどは言われたことがないが、勤務先の偉い先
母とは海外旅行をしたことがない。国内旅行は、なんどもしているのだが、海外となるととたんに敷居が高くなる。だが、母は他の家族とはけっこう海外に行っているのだ。 弟は、小学四年生だった80年代の初めに、父の長期出張に母に連れられて行き、ロンドンとデイビス(カリフォルニア州)にそれぞれ三カ月ずつ滞在した。その間、弟は現地の日本人学校に通った。わたしと妹は、大学があったのでふたりで日本に置き去りにされた。その代償だったのか、母が翌年わたしと妹がふたりで欧州旅行をする旅費を出してくれ
書庫の段ボールの中から出てきたエリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』は1976年11月に柳瀬尚紀訳で新潮文庫から発行されたものだった。 確かに、その中には、文豪と呼ばれるような男性作家の書く女性が現実にそぐわない場合のあることが書かれていた。だが、そこにはトルストイとフローベールが入っていなかった(トルストイは一回だけでてきたが崇拝する作家のリストに入っていた)。わたしは、アンナ・カレーニナとエンマ・ボヴァリーがどこかおかしいという記述と共にエリカ・ジョングを記憶していたのだが
高校時代、授業中は無言の行を実践していたわたしが、いちどだけ国語の時間に発言というか質問をしたことがあった。 それはまったくの偶然だった。教師は、産休の代替教員としてきたどこかの大学院に在学中の若い女の先生だった。普段はそもそも授業をまじめに聞いていないので質問などできるわけもなかったし、落ちこぼれであることは公然の事実だったので、他の先生なら、わたしが指名されることはありえなかった。だが、たぶんまだ若く経験も浅かった彼女は、それに気付かずに、わたしに発言を求めたのだった。
高校時代、文芸部にいたこともあり、小説を書こうと思い立ったが、実は文学(特に日本文学)というものをほとんど読んだことがなかった。SF小説や怪奇幻想小説の類が好きだったので、その手の翻訳物は、結構読んでいたから、それをお手本にしようと思った。中でも好きだったのが、カート・ヴォネガットJrとリチャード・ブローティガンという米国の作家の作品だった。 他にも、ドストエフスキーの長編はいくつか読んだことがあったし、フランソワーズ・サガンやボリス・ヴィアン、レイ・ブラッドベリなど、翻訳
月曜日に勤務先に行くと予想外の事態になっていた。 新型コロナが蔓延した2020年4月以来、わたしは一人暮らしの母のいる実家で、週2回(およそ月8回で通常の7割減ということである)出勤する以外はテレワークを続けていた。それはわたしだけでなく、女性の多い職場でもあり、月1-2日しか出勤しない職員も多くいたのである。 それが、8月1日月曜日の朝に出勤すると、いきなり妙な噂を聞かされた。 テレワークが禁止されるというのである。しかも今日これからすぐに実施されるというのだ。 理
最近読んだ『読者に憐れみを』というカート・ヴォネガットの本に、「物語が書けない者は本が出せない。物語を作ることは極めて稀にしか見られない才能だ。きれいな文章が書けるだけではだめなのだ」と(まあだいだいそのような意味のことが)書かれていて愕然とした。うすうすわかっていたことではあったが、やはり物語を作れない人間は作家にはなれないのだ、と思った。 最初その言葉をみたときは、カート・ヴォネガットがそんな発言をしていたことにかなり強いショックを受けた。物語が作れなくても、作家になる
旅行記を探しているうちに、だんだん目的が曖昧になってきた。といっても、そもそもの初めから、なんでそういう話になったのか自分でもよくわからないのだから、当然といえば当然であった。 最近読んだペール・アンデションの『旅の効用』という本のまえがきには、「人類が書き記した古代の本はどれも旅日記だ」と書かれていた。それは極端にしても、旅のことを書いた本は古来、枚挙にいとまがないのである。 旅行記が好きなのは別に今に始まったことではないので、これまでにも旅行記の類は、それこそ腐るほど
〇月〇日 木曜日 母は、午前中横浜に行くと言って出かけた。ちょうど昼に帰ってきたが、弁当も何も買ってきてなくて、昼食はお茶漬けだった。 母は、ゆかたを買いに行ったのだと言った。そのゆかたは、死んだときに着せてもらうものだそうだ。古いのをもっているが、そろそろ新しくしておかないといけないと考えたという。値段が上がっているだろうと思ってはいたが、4万円以上もしたので買わずに帰ってきたのだという。 こわくて聞けないのだが、そのゆかたというのはいったいなんなのだろう。 まさか白
先週の金曜日のことである。いつものように朝食に降りていくと、母が食卓の前で暗い顔をして立ちつくしていた。わたしが二階から降りてきたのに気づくと、 「アイちゃんから、今日行きますっていうメールが来ないのよ」と言った。 「金曜日だからね」とわたしは答えた。妹が毎週、朝早くにメールをよこして昼過ぎに来るのは、土曜日である。 母は、「あっ!」という顔をして「今日はまだ金曜日だったのね。メールがいつまでも来ないから心配になってこっちから送っちゃったわ」と言った。 まさか、連日の