「私は」と語れる学校の先生が増えたら教育の多様性は広がる?
年明けから準備をしてきたシンポジウムをはじめ、運営に参加している学会の年次大会が終わりました。対面での開催は3年ぶり。無事終わり、ホッとしています。
今回の大会では、現場の先生が登壇してお話されたプログラムが複数ありました。お話を聞き、気づいたことがあります。
「私は」で語る先生、「本校は」で語る先生
先生ってお話上手ですよね。声のトーンが安定しているし、話慣れしていて安定感があります。でも、なーんか違う印象を持ちました。どちらの先生も現場の話をしてくださったのですが・・・。
なーんだろう、この違和感。
しばし考え、気づいたことは「主語」でした。
ある先生は「私は・・」と話し、ある先生は「本校では・・」と話していました。後者の先生は、学校の話に終始し、ご自分がどう思うか、どう考えているかの「私」の語りはなかったように思います。
見えないバリアの存在
「私は」で語った先生は、会場のあった県から遠く離れた県の学校の先生でした。「本校は」で語った先生は地元の学校の先生でした。もしかしたら、地元だから、どこかで「あの先生、こんなこと言ってたよ」と情報が流れることを危惧されたのかな?
聴衆の教員によると・・・
小学校教員の知人がこの会に参加していました。「私は」と「本校は」についてどう思う?と聞いたら、笑って、こんな話をしてくれました。
…たぶん、「本校は」の先生は管理職だから校外でお話をする機会があるんだろうけど、校外で話すときは、時間どおりに終わるように事前に校内で練習するんだよ。校外で話すなら、当然、学校の良いことしか話さないよ。そこに個人の意見なんか入る余地はない。
これはあくまでもある個人の意見だから、先生はみーんなそうだということではないです。
ちなみに、「私は」で語った先生は、ギフティッドの生徒を2年間担任し、最初はどんな風に生徒を指導していたか、それが生徒にとってどんなふうに苦痛だったかを率直に語り、自分はこうあるべきだという考えにとらわれていて、生徒と対話して、どう変わっていったかを「私は」で話していました。
べき論では多様性は生まれない
「本校は」のうしろには、「本校はこうです」があり、結局のところ「本校はこうあるべき」になってしまい、本校に合わない生徒は排除されてしまうのではないかな。
「私は」の先生の学校はギフティッド教育の学校ではもちろんなく、その生徒に対して特別なカリキュラムを提供したわけでもなかった。何をしたかというと、その生徒の言い分をしっかり聞き、許容できることは許容したとのこと。許容できるかの判断は、先生一人ではできないけれど、校内で適宜相談したそうです。
一人の生徒のためにそこまでできないよ・・・
学校現場の本音でしょうが、「そこまでできないよ」のうしろには「こうあるべき」という見えない型におさめようとする無自覚の意識があるように思う。根深い学校文化といえばよいのかな。
学校って楽しいところだと思う。
どんな子も学校って楽しいね、と通えるような学校になってほしいと強く思いました。