親の場合、自分の場合、認知症について私が思っていること~映画「ファーザー」を見て~
アンソニー・ホプキンス主演の映画、「ファーザー」をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。
ちょうど今、Amazonのプライムビデオで観られる2020年の映画で、今、私たち姉妹で改めて話題になっています。
「ファーザー」簡単なあらすじ
ロンドンで一人暮らしをしている父、アンソニー。
認知症の父を心配し、娘のアンが通いで様子を見ながら、世話をする介護人を手配するのですが、「私は何でもできる、何も問題ない」と。
アンは新しい恋人とパリで暮らすことになったからと父を説得するのだが、納得しない。
そんな話ばかりするアンに対して、もう一人の娘ルーシーには、もう何年も会っていないので、アンソニーはルーシーに会いたい。
そこに、アンと結婚して10年以上になるという見知らぬ男が現れ、ここは自分の家だと主張される。しかしアンソニーは、アンから新しい恋人の話を聞いているので困惑する。
アンソニーは自分の記憶にも自信が持てず、現実と幻想の間を行き来しながらさまよっていく…。
あるある、のオンパレードが続いて苦しい
2年前に亡くなった私の父は、その1年半前まで自宅で母と二人で暮らしていた。
その頃の様子が、映画の中のアンソニーによく似ていた。
例えば、
・いつも腕時計を外さず、時間を気にしていた
・自分の「家」にこだわっていたこと
・外部の介護事業者が「家」に入るのを嫌がっていたこと
・私が何かを企てているのではないかとときどき疑心暗鬼になったこと
・自分は家のことはなんでもできると主張していたこと
・周りは盗っ人ばかりだと時々言っていたこと
・着るものや帽子、持ち物にいつもこだわっていたこと
・家族以外にはとても紳士的にふるまっていたこと
などなど。
そして私は、映画の中のアンと同じ。
父のためにいろいろ考えるのだけれど、それに対して父の納得が得られなかったり、疑心暗鬼になられたりするたびに、がっくりする。
私はアンのようにやさしくないからイライラして口論になることも少なくなかった。そんなときの自分を思い出していた。
しかし映画はアンソニーに視点で描かれていたので、亡き父が当時どんな心持ちでいたのかを突き付けられるような思いがした。
苦しかったのは私だけではない。父の方がもっと不安で苦しかったのだ。そこを理解しようとせず、父には本当に申し訳なかったと思う。
一番つらい時期は
私の父は、自ら「認知症の検査をしたい」と言い出し、総合病院の脳神経内科に出向いて検査を受け、初期のアルツハイマー型認知症の診断を受けた。
当時、日々の暮らしの中で、誰も父の認知症を疑っていなかったのに、だ。
その後、病院に行く際に玄関の鍵をかけながら「自分の家の鍵もかけられなくなるのだろうか?」と母に呟いていたそうだ。
父は家の中では、私たち子どもや母からバカにされることが多かったのに、出かけるときはいつも、季節に合わせた帽子、カバン、ジャケットに気を配るお洒落さんで、外では物言いも穏やかだったようで「ジェントルマンですね」と言われていた。
先の映画のシーンのようなことが起こったのは、診断を受けて2年くらい経ってからのことだった。
父は忘れないようにと、小さなノートを持ち歩き、何でもメモしていた。
お医者さん、介護事業所の人、看護師さんの名前や、その時に話したことなども書いていた。
父の死後、そのノートに「バカになっていく」というメモが残っていたのをみつけた。父は日々認知症の進行を自覚しながら、不安と戦っていたことが窺える。
認知症で一番つらい時期はこの頃だと思う。
他の人からはぜんぜんわからない初期から、自分の記憶や能力がだんだん衰えていくのを自ら実感していく時期だ。
当時の父は夜中にひどい腹痛にも悩まされ、何度も救急車のお世話になったが、病院からは「こんなことくらいで救急車を呼ぶな」と帰されることをしばしば繰り返していた。しかし当の本人は本当にお腹が痛くて苦しくて失点抜刀だし、毎回救急車に同乗する母も披露困売だ。
腹痛と認知症に関係があったのかどうかはわからない。が、当時の父はいつも不安を抱えていたように思う。
このままでは母と共倒れになる、私たち子どもの生活も立ち行かなくなると考え、父を老人ホームに入居させることを決断した。入居後も、父はノートを放さず、スタッフの名前をメモしていた。
さらに認知症が進行すると、メモする文字もヨレヨレになり、やがて何を書いているのかよくわからなくなってきたが、かつて苦しそうだった不安からは少しづつ解放されて行くように見えた。身体の調子も安定し、腹痛もなくなっていった。
それでも父は最期まで私たち家族のことがわからなくなることはなかった。
母の場合
父がホームに入り、1人で暮らすようになった母は、毎日不安で眠れない、このまま将来どうなるのだろうと言い出し、不安を感じるようになってきた。
父の言うことを聞くわけでもないのに、どんな些細なこともいちいち父に相談していた母だったので、1人になったら相談する相手がいなくなってしまったからかもしれない。コロナが始まったからかもしれない。
味噌や梅干しまで手作りしていたのに、お惣菜を買うようになり、冷蔵庫の中には作りかけのお惣菜が多数あるのに食べないまま腐っていることもあった。
コロナが始まったばかりの頃は、自由に行き来が難しかったので、母とも相談し、一時的に自立型のサ高住に移ることを決めた。
サ高住に移ってからは、大好きな読書三昧の日々が始まった。
しかし旅行に向けて足を鍛えるため歩いていた際に転倒し、大腿骨を骨折。手術、リハビリを経て、ようやく歩行器で少し歩けるかどうか、まで回復したが、この入院中に認知症が進んだ。
介護が必要になったので、サ高住から老人ホームに移った。
面会に行くと、関ヶ原の戦いを見てきた、明智光秀が○○と言っている、ベルサイユ宮殿に行ったら○○だった、等々、日本史世界史の話を自分が経験してきたかのごとく、楽しそうに話をする。歴史に疎い私は、ただ聞くのみだ。
その後、感染症の発熱から糖尿が悪化し意識障害を起こして入院。これでさらに認知症が進み、退院してからは歴史の話はしなくなったが、ホームのスタッフがいかにいい人たちか、ありがたい、自分がみんなから愛されている、と嬉しそうに話すようになっている。
認知症の症状はいろいろだけど・・・
父は映画のアンソニーとよく似ていたけれど、母は全然違った。不安だっただけで疑心暗鬼などなかった。ときどき死んだ父や妖精が見えるようだが、恥じらったり無邪気に笑ったりと、少女のようだ。
でも、二人とも症状が進む前は不安が大きくて苦しそうだった。メンタルを病んでいる脳の病気だということがよくわかる。
今の母を見てると、認知症が進んだおかげで楽になったようで、娘としては寂しいけど少しホッとする。
認知症と言うのは、最初の頃は一緒に暮らしていなければわからないことが多い。一緒に暮らしていても、近くにいてもわからない場合もある。
周りの認知症の人を見たり聞いたりしても、症状は本当に人それぞれ、みんな違う。大きな声を出したり、暴力をふるったりする人もいるけれど、決して多いとは思えない。ただわからないことが増えて周りを困らせたり、強い思い込みで人を責めたりする人は多いようなので、一緒に暮らす家族は大変だ。映画「ファーザー」もそうだったが、家族にはそれまでの歴史や愛情があるから、わかってほしいという割りきれない思いで、お互いに辛くなる。
その微妙なやるせなさは子どもだからこそで、連れ合いなど近い家族にもわかってもらうのは難しいと思う。
でもある時期を超えると、認知症の本人はその不安から解放されるようだ。不安のこともわからなくなるからかもしれない。
認知症になりたくない、自分のことがわからなくなってしまうなんて、と言う人がよくいるけれど、自分のことがわからなくなるまで進めば、もう苦しくないのだと思う。むしろそこに行くまでが辛くて苦しいのだ。母が認知症になった祖母(母の母)のところに通っていた頃、
「お手洗いのことを自分で全部できなくなって、認知症でよかったのかも」
と言っていたことがある。「恥ずかしさ」がわからなくなる幸せもあるのだ、と。当時、私はまだ30歳前後だったが、なるほど、そういう考え方もあるか、と思ったものだ。孫と娘では感じ方や思いも違ったのかもしれない。
私もきっと、長く生きれば将来認知症になるのだろう。
認知症の症状は人それぞれで、自分のこれまでの人生が出ると言う人もいるけれど、もしそうだとするとちょっと怖い。人に文句ばかり言っていたとしたら…。できることなら母のようなチャーミングな認知症であればいいなと思う。