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映画「花束みたいな恋をした」感想
きのこ帝国のクロノスタシスが頭から離れない。
ドラマ、「大豆田とわこ~」ではじめて脚本家、坂元裕二さんを知った。
正直、恋愛映画なんてもんは、女の子が死んでバッドエンドか、ライバルが現れてすれ違うけど結局結ばれてハッピーエンド、というようなお決まりの展開しかない(断言できる)なので観る気にならないんだけど、地上波放送だったのと、脚本が坂元裕二さんだったので、
いつもと違う展開を期待して、観た。
で、観て良かったと思いました。
以下ネタバレしますので注意。
以下の記事はおおむね私も共感したのでシェアします。
この映画は大きなハプニングが起こるわけでもなく、日々の、よくあるような日常を切り取っているのに観ていて飽きなかった。
ぼくは恋愛に疎いほうなんだけど、最後のファミレスで、過去の絹と麦(水野と羽田)が雑談をしているシーンで号泣した。
絹は別れ話をして、麦がプロポーズをするという、お互い真逆の話をしている現在のこの状況に、
水野と羽田は、なにもかもが同じで、言葉のひとつひとつに心が踊っている。
もうあの頃の絹と麦には戻れないことがありありとわかってしまって、悲しくて虚しくて、、、。
絹と麦は同じ本を読んで同じようなファッションセンスで、一緒にいると楽しくて、同じ価値観を持っていて。本当に自分の分身みたいな相手と出会って。
それで好きになってまあ一緒に生活して行くわけなんですけども。っていうか、麦が告白したとき、スマホカメラ越しなんですけど、目の前にいるんだから目みて言えや!と思いましたが、そのころの世代はラインで告白したりしているので、絹も別段違和感はなかったんだろうなと思います。あるいはここは皮肉なのかな。冒頭で「音楽は一人に一個ずつ」、「それぞれのスマホで同時に再生すればいい」、と言っているし、
この時点ではミキシング技術のおじさんに諭された直後というこもあり、それぞれのスマホに一人ずつ写ること、
つまり、相手に分け合わさせようとするのではなく、一人として尊重し、その答えを聞こうとする態度だったのかもしれない。
絹は結構、人の意見に流されるタイプだし、流れに合わせようとするタイプなので、ムードとか、そういうので流されてしまうタイプだと思う(これについては後で書く)。けど麦に好意は持っていたので、ムードゼロで告白はうまくいったんですよね。
学生の頃は本当にうまくいっていた2人。
でも社会的責任というか、結婚とか自分で稼がなければならないっていう責任を負った瞬間、社会の重圧というかふたりで生きていく責任というものに押しつぶされて自分というものが消えてなくなっていってしまう。
その悲しさというか寂しさというか儚さみたいなものが本当に痛いほどわかるんですけど
私自身も働き始めてから好きなモノに熱中できなくなってしまったというか。
それはあの~~、年を取ったからだっていうふうに思ってたんですけど
絹は私自身だったし麦は私自身だったっていうか。大好きだったものはなんとも感じなくなっていくっていうのが。感じなくなるというか、むしろ遠ざけようとさえしてしまう。
趣味が社会人になってどんどん失われていく、どうでもよくなっていく、なんとも感じなくなってしまうというのを、恋愛に置き換えられている映画だと思います。独り身にも刺さりまくる。
例えば私が麦だとして、好きなもの例えば漫画とかが絹、だとすると、
私は絹が大好きで大好きでたまらなかったのに、社会人になった瞬間、麦が作中言ってましたけど本当に頭に入ってこなくなっちゃうんですよね。仕事とかやってると。パズドラしかできなくなるって言うのまじでそれ。まじでパズドラ。
昔好きだったものにたいして、
なんでこんなもの読んでたんだろう?とか好きだったんだろう?とか。社会人だから仕事のことが第一優先になっちゃって、絹のことがどうでもよくなっちゃうっていうか。大切だけど心を向ける余裕はないというか。絹から遠ざかってしまうんですよね。
本当にそれってすごく悲しくて、本当に本当に悲しくて。
私もできることなら働かずに好きなことだけやっていきたいんですけど、働くってなった瞬間に何て言うか自分らしさをどんどん失っていくというか自分の好きだったものさえどんどん失っていくっていうこの悲しさをこの映画はすごく表しているなって言う気がして。
麦を見ていてまるで自分を見てるみたい。本当に悲しい。大切だけど働いてると忘れちゃう。
学生の頃のような情熱というか、大好きに思っていた感覚みたいなものをどんどん忘れていってしまって。
この映画もしかしたら社会批判もあるのかもしれない。
この社会のあり方というか、世の中のあり方というか、
私たちが恋人だとか家族だとか夫だとか妻とか子供と仲良くできないのは、
心の余裕が持てない、大好きなはずのものに心を向けられないのは今の社会のシステムのせいっていうか。
全てをシステムのせいにするわけじゃないけど、今の世の中のシステムっていうのがそういうふうにさせてしまっているのかなっていうのを感じさせる映画でしたよね。
けどね、麦が営業マンにならなかったとしても、
ふたりが結ばれることはなかったこともちゃんとストーリーには入ってます。これもわかりみが深すぎて悲しかった。
私が最初に思ったのは、
たぶん一番大切なのは、お互いが苦痛なく歩み寄れるかどうかなんだ。ってこと。
ファミレスで別れ話をした後に、麦は絹に結婚しようと言い、絹もそれに歩み寄ろうとした瞬間、
水野と羽田がやってきて、それは絹と麦にとって最終的な別れを決断させることとなった。
学生のころは、あの真っ白なスニーカーのように、お互いがお互いの色に染まることで楽しい時間が過ごせた。
でも大人になるにつれ、相手の助言も聞けなくなるし、聞こうともしなくなるからケンカは増える。
学生のころは歩み寄ることが楽しかったのに、大人になるとケンカにならないように歩み寄ることがほとんどになって苦痛でしかない。
、、、って思ってたんだけどね、
違うんだなこれが!
そう、恋愛は一人に一個ずつ!!歩み寄るのは学生まで!楽しい恋愛まで!結婚をゴールにしたいなら、依って立ってはダメ!
ふたりが別れることになった決定打はなんだった?
そう、先輩の死だ。
その時、はじめて絹は麦に寄り添えなかった。そして麦も寄り添ってほしいのに寄り添ってもらえなかったことに腹を立てて、どうでもよくなってしまった。
感情というものは、ふたりで分ける必要なんかない。イヤホンのLとRみたいに、ふたりで分かち合う必要なんかない。自分の心は、自分がわかっていればいい。だって、絹には寄り添えなかった事情があったように、常にお互いが感情を分かち合うなんて無理だからだ。
恋人たちよ、お互いが趣味が同じで、同じ本を読んでいても、話がめちゃくちゃ弾んでも、行動パターンが同じで運命のように思えたとしても、”価値観も同じ”だとは限らない。この映画では、
絹と麦のように、全く同じだと思っていたからこそ、“違う”と感じたときの違和感は修復できず、別れる結末となることをまじまじと見せつけた映画だと思う。
いや、絹と麦は価値観同じでしょ、と思ったあなた!よく見直してほしい。
同じだと思っていたものは、本棚や今井夏子や押井守、ミキシング技術のおじさんという、「外部から得た価値観」であり、絹と麦「自身の価値観」じゃなかった。
ふたりは「外部から得た価値観」に惹かれ合い、そこにばかりフォーカスしてしまって、お互いの「価値観」が見えなくなってしまっていた、というか、見ないようにしていたんだと思う。一緒にいるために、思ってもいないのに同意することってよくあるよね。恋愛ならそれもありだけど、ずっと一緒にいるのは無理になっちゃう。
冒頭でふたりが運命的な再会を果たしたときも、その音楽の聞き方の価値観はミキシング技術のおじさんの受け売りでしかない。この映画をはじめてみたとき、この冒頭のシーンでふたりはお似合いのカップルになるんだろう、と思っていたが、
ただミキシング技術のおじさんの価値観にふたりとも共感しただけだったんだよ、という坂元裕二の声が聞こえてきそう。
「音楽」=「好きな人」とするなら、分け合うとLとRみたいにどちらかの側面しか見えなくなってしまい(外部から得た価値観↔️その人本人の価値観)すれ違ってしまう。だから好きな人のことははちゃんとLとR両方聞いて、つまり一人の人間として、向き合わなきゃいけないってことなのかなと個人的には解釈しました。
で、
「花束みたいな恋をした」のタイトルの意味、
ストレートに「花束の寿命は短い」、って解釈もありだけどなんかそんなの悲しいじゃないですか。
だからぼくは絹の言っていた、
「女の子に花の名前を教わると男の子はその花を見るたびに一生その子のことを思い出しちゃうんだって」論を推したいですね。一生忘れられない一輪一輪の花が花束になるくらい素敵な恋だったって。
絹は人に流されやすい、ってはなしなんですけど、
一回だけ会ったことがある男と一緒に焼き肉食べて天竺鼠のライブ諦めたり、合コンの人数合わせでカラオケ屋のように見えないカラオケ屋のいっつもインスタ用の写真撮ってる女子、を批判してるってことは絹はそこの常連だし、ガスタンクの映画途中で寝たのに「面白かった」って言ってるし、新しい仕事のことを「遊びじゃん」(これめっちゃひどい!と個人的には思った。俺だったらキレ散らかす)と言われても「そうだね」って一回同意するし、絹は相手に合わせる傾向なので。麦と絹が出会ってから何から何までおんなじに思えたのはもしかしたら知らないことでも麦に合わせていた可能性だってあったのかもしれないなっておもったんですよね。そういうぬるま湯に麦は4年もどっぷり浸かっていてそりゃ別れようなんて思わないですよ。だって絹はいつも合わせてくれるから。
んで、絹も自分がそういう風に相手に合わせるタイプだから、合わせてほしいって思うタイプだと思うんです。世の中の男子と女子の縮図をみてるみたいじゃないですか(何を知った風に)けどやっぱそういうのって窮屈ですよね。
んで最後のほうで絹の彼氏が「靴買いたい」と言って絹が「選んであげるよ」って言ってたのにはシビれた。もう相手に合わせるだけの女の子じゃないんだなと。
さて、言いたいこと好き放題言ったカンジになってしまい申し訳ない。
映画面白かったです。普通の恋愛映画なのに普通の恋愛映画じゃなくてすごかったですね。
他の方の感想を漁っていると地上波版は結構カットされてるっぽいのでNetflix契約して、見直したほうがいいかなって思いました。フル尺みたらもしかしたら感想全く変わるかもしれないし。
気が向いたらフル尺みたいと思います。
「好きな言葉は「バールのようなもの」、です」のところ一番笑った。
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