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想定できそうなのに想定外みたいな顔をしてしまう。
嫌われたり疎まれたりするのは当たり前に起きるということを、気を抜くと忘れてしまいます。
厳密には、誰も自分に興味を持っていないのが普通なのに、受け入れてもらえるのではないかと簡単に期待してしまいます。これはメンヘラ的精神状態から生じる書き出しではなく、デフォルトの状態は"無関心"だよなと思い出すために書いています。興味がなければただの人間、ただの職場の人、ただの芸能人だけど、それがたまたま何かの拍子に感情移入して友達や相談相手や推しになるわけです。それでも、実は思った関係性ではないと分かった時に、元々そうだったしな、と自分に言い聞かせる日がたまにあります。それだけで簡単に割り切れる話ばかりではないのに、「ご縁がなかった」と納得するしかないなと思っています。
意見が違う人がいることも当たり前なのに、わざわざ視界に入れて食らってしまいます。周囲の危険に目を見張っていた方が生存確率が上がるのと似た原理でしょうか?自分が大切にしているものと全く相容れない話を目にしたとき、防衛反応として何らかの感情を持ってしまうのは、生物学的には理にかなっているかもしれないけど、何故かいつもその都度、まるでそんなことは想定外だったみたいな顔をしてしまいます。いやいや、世の中にあらゆる思想が存在するのは当然だし、それが無駄に可視化されるのがSNSでした。扁桃体を煽るために最初からおすすめが表示されるアプリで、何も傷つかずに済むなんて考えるのは理想論かもしれません。いや、何も傷つかずに済むなんて思ってなかったですけど、振り返ってみればSNSやファンコミュニティにたくさん傷ついてきました。ヲタクにとって応援は死活問題だし、4月が春なのに寒いのは毎年同じです。こうして、想定外だったことを想定内のフレームの中に入れて、それが脳内でパターン化されて、最終的に何も感じなくなっていくというのが、達観するということなのですかね。
自分が何を前提として行動を選んでいるのかを常に認識していたいです。そして、人によってパラメータや感受性はそれぞれ違います。どこをニュートラルの位置と捉えているかによって持論も違ってくるだろうし、その人がどんな環境で生き抜いてきて、どういうコンテキストの上で感情や言動に至るのかを理解できたら、僕は溜飲を下げるかもしれません。理解できないとしても、興味があります。例えば、5時間しか寝ていないから機嫌が悪いと分かれば、だから好戦的になっているんだと少しは理解できるし、言葉のナイフを見てしまったときも、是非はともかく、この人は自分の大切なものを守るために闘っているんだと解釈できます。
吐き出された言葉から文脈が排除されて流通する社会では、何を言っているかではなく、どうして言っているかに目を向けないと、その人がどういう人なのかを見誤ってしまいそうです。
性格が違う人は本当に性格が違うので(重言)、もはや脳が違うのだろうなってレベルで思考回路が異なっているし、たぶんこれを読んでいる何割かに全然共感できないと感じた人がいるはずです。でも、絶対的に何が正しいなんてないと思うので、我々は分かり合えないという前提で分かり合いたいです。何が社会適合とされるかは長い目で見て可変的なものだし、人それぞれ違う特性を持っているのは、巨大な集団において性格的役割を割り当てられているようなものだと解釈しています。僕は当たり障りのないことしか言わない担当ってことで、それだけでこの世界の均衡に貢献していると、そういうことにします。