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霊性レベルの《脱構築》その他について

『そもそも自他境界の怪しい人に対して《他者性へのアプローチ》たら話したところで、通じる訳がなく(0参照)。同様に、中庸と怠惰や臆病の区別がないバランス厨のような人には、もっと普通にわかりやすいと思われる《秩序と逸脱》の話も得てして通じない。どころか、理不尽な逆恨みを買ってしまうことさえあるのであり(1参照)。/そんな訳で私は、《現代思想》《(自己変容をともなう)魔術》やなんかに掠るような発言(2参照)については、慎重にならざるを得ない。』
 といったツイートをしてしまう自分の迂闊さに呆れつつ、慎重にならざるを得ないと書いたハナから更に迂闊なメモを。まずは、関係も関心もまったくない覚書が不本意に《誤配》されてしまう事故を避ける意味で、各項目の内容を大まかにまとめると、
☆0:今更《脱構築》について改めて考えたり、それ以上の画策をすることに何の意味/価値があるのか。更には、二項対立(的整理)を前提として要求するらしい《脱構築》の為に、無理矢理その形式で整理することに何の意味があるのか(取り敢えず「ソシュールごっこ」としてやってみるか)。
☆1:準備不足や配慮不足、認識の甘さなどから、どちらかと言えば失敗したと思われるリアルワールドでの経験を振り返りつつ。他人と関わる際に気をつけるべきことなどを改めて。
☆2:20世紀に起こった偶然か必然かわからない事件。ある哲学者が自著中で用い、新しい思潮の重要なキーワードとなった語彙が、それに先駆けある魔術師が残したお筆先の中にも見出されるというファクトを巡って。

このへんの話と被りつつ。

0.前提としての二項対立について

 このような二項対立を脱構築するためにうんたらかんたら。何やそれ。ガンジス河の真砂より数多おはする選択肢のどれを採るかといった悩みは言うに及ばず、ベタなトリレンマの解決にすら、《脱構築》は役に立たないのに。とゆーか、そのような実務的な選択や判断以前の話で。それをやったから何がどうなるというもんでもないかも知れない。それでも、敢えて、改めてそれをやってみようという思いが強くなっている。
 ただし、《脱構築》を行う前提として要求されるらしい《二項対立》は、平和的な共存やウィンウィンたらではアカンみたいだ。互いに対立する二項は、「是/非」または「善/悪」の関係である必要があるとのことだが、私は、そんなふうに世界を見るのが苦手だ。ソシュールによって二項対立的に整理されたと言われる多くのペアだって、正直言うと私にはただのニコイチハッピーセットにしか見えない。こんなんじゃそもそも《脱構築》なんか無理やん! という危惧もありつつ、それでも、一種の「ソシュールごっこ」としてなら、やってみる余地はあるような気がしている。
 かつて私は、「魔術をより深く理解する為には、まずキリスト教(思想)を学ぶべき」という趣旨の主張を何度も目にし耳にした。口先だけではない実践者も知っている。この場合、《魔術》は《キリスト教》に対するアンチまたはカウンターパートとして設定されている(更に身も蓋もない言い方をするなら「代替宗教」)が、予めそういう世界観と無縁な人にとっては、どうなんだろう。大らかな大地にわざわざ火種になりかねない国境線を引くのに似てないか。更に、整理する過程でこぼれ落ちる大事な何かをどうしてくれるのかがまったく見えない以上、私には、宇宙と霊性の矮小化とも映った。
 自分が今、改めてやろうとしているのは、もしかすると、更にそれ以上に人工的で不自然なことなのかも知れない。

1.いくつかの経験的ナンギについて

 気がつくと、自分が所属するフラタニティ団体の地方支部はFull Colored Lodgeの状態になっていた。素晴らしい! だが、多様性の増大とは、訳わからないナンギが増えるということでもあり。
 あるとき私は、「距離感が危うい」メンバーについての訴えを聞くことになった。コロナ禍以前の話なので今はまた違うんだろうけど、距離(話を無駄にややこしくしない為にも、まずは物理的なそれに限らせてもらう)に対する感性は文化圏ごとに異なり、例えば、欧米の人たちがある程度「親密さ」を感じる距離であっても、中南米の人からすれば「何だか水臭くよそよそしい距離感」であったり。かと言って、中南米の人たちが「親密さ」を感じるところまで一気に距離を詰めると、今度は欧米の人たちが、自分の領域に無断で踏み込まれたことに対する「不快感」更には「危険」を感じることになる。近接空間学だかの研究成果として、そんな話を聞いたことがある。「距離感が危うい」というのは、それを訴えた人物が生まれ育った文化圏における常識に沿って導き出された感想でしかないから、公平を欠くものであることは間違いない。とは言え、そう主張する人物は、まさにそのことで「不快感」更には「身の危険」を感じていたのだから、
「ここは一つ、自分と異なる価値観を、大らかに受け入れてみましょうよ」
などと悠長なことを言ってる場合ではなかった。
 このようなことは、次々にいくらでも起きる当たり前の話なのだが、私が驚いたのは、手前勝手なロジックで相手を断罪する際、多くの人は得てして、より大きな理想(例えば「多文化共生」といった)を平気で「無かったことに」できたりするらしいということだった。私には無理だ。私は自分の「変さ値」を強烈に意識しつつも、ホオル・パアル・クラアトよろしく黙っているしかなかった。
 私はまた、何の悪気(「自覚」と言うべきか)もないまま、つい調子に乗って周囲の人たちに不愉快な思いをさせてしまいがちな人物に、次のように言うことがあった。
「大切なのは、善意でも忠誠心でもなく、想像力だと思います」
 それが最もフラットな忠告だとその時点では思っていたし、相手は取り敢えず大きく頷きながら聞いてはいたが、果たして本当に伝わっていただろうか。「想像力」に第三者への忖度や実在しない何者かへの追従の形を取らせる日本的同調圧力に対し、今まさにやりとりしている相手のために「想像力」を使うやり方。絶望的に伝わっていなかった。私は経験上、話を聞きながら頷く際の首の振れ幅が大きい人ほど、実はまったく話の内容を理解できていないことを知っている。
 更に、上記の説明文言が、発達障害の人に向けられたものであった場合はどうだろうか。私の言葉は、
「あなたには想像力が欠けている」
とも、デコードまたは変奏できる。
 などなど、ネガティブになりはじめると際限がないのですが、私がリアルワールドで日々行っている判断の在り様そのものを《脱構築》したき。

2.《戦争機械》について

 1980年に発表されたドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』(日本語版は1994年。現在は文庫化されている)において、《戦争機械》はざっくり「ノマド(遊牧民)」と「≒」の意味で使われたりしている。それは、この世界の外側にあるもの。開高健『流亡記』で言えば、万里の長城の向こう側、匈奴が駆けまわる世界に属する。こちら側の世界には決定的に欠けている、ある活力の源泉としての何か。
 遡ること70年と少し前、1904年に記され(事情で出版はもう暫く後)邦訳も出ているが未だ文庫本では読めない『THE BOOK OF THE LAW/法の書』第3章には、「子のアイオン」の主神たるラア・ホオル・クイトの言葉として、次のフレーズが出てくる。
 
 I will give you war-engine./戦争機械は私が提供しよう。(C.S.訳)

 このことを指摘した魔術関係者は、私が知る範囲では(「趣味は哲学書を音読すること」と仰っていた自称魔術研究家_ただのインチキ野郎じゃないかと言われればそれまでかも知れないが_含め)皆無。理由としては、
一、(『法の書』)読者が余計に混乱するような情報は不要と判断された
二、アカデミズムへの配慮または忖度の賜物
三、(関係者は)『千のプラトー』も『戦争機械』も誰一人知らなかった
などが考えられるが、「三」は流石に不自然過ぎる。知ってはいたが、敢えて意図的に(または無意識裡に)話題にすることを避けたのだと考えた方が自然だ。おそらくバッじゃなくて自らに対して不可視化の魔法でもかけたのだろう。よっ、魔術師!



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