5月23日(日)リアルな記憶/アストラルな想像
土曜の夜の振り返りを日曜の朝に記す。
記憶がいつもリアルであるのに対し、想像は荒唐無稽。または、何のエビデンスたらもないまま、そのように思い込まされていたりするせいか。リアルな記憶と荒唐無稽な想像の間に接点を見出すこと。に、いつも苦労している。
価値観や信念や場合によっては劣等感の拠り所だったりする記憶のリアリティは、それだけ圧倒的なものだが、曖昧な記憶の断片をほじくり出し、入念なファクトチェックを経たとしても得られるとは限らない。というか、更に乱暴に言ってしまうと、事実かどうかはさして重要ではなく。リアリティが大切な局面では、事実関係の整理または検証はガクンと優先順位を下げているのが常だ。
例えば、ある「史実」について、生き証人なんて呼ばれたりする体験者の語りは、それぞれが微妙にまたはある部分が決定的に違ったりする。各自が同じ「史実」に対して、それぞれ異なる関わり方をしていたのだから当然なんだろうけど、自分の知る限り一部の文学(☆1)やなんかを除き、不思議と軽視されているように思える。例えば、ヒトはそんなある「リアリティ」を共有することで繋がれる(☆2)生物だったりするのに。
この1週間、クソ真面目な人が発揮するTPOを無視した頑固さや頓珍漢な厳格さに閉口したり、あなたの仰る「正しさ」って何なんですか?(☆3)と相手を問い詰めたくなるような場面が何度かあり。この人が得意な伝わらない皮肉、自分以外の人間を決して笑わせることのないマニアックなジョークなどの問題と併せどうしたものか、反面教師に敬意を表しつつ考えた。自分も無意識のうちに似たようなことをやらかしてないか。「音声学的にはアレだけど、音韻論的には問題ないっしょ(☆4)」みたいなこと言ってしまうとか。
そんな訳で、リアル/アストラル(☆5)または記憶の強さ/想像の軽やかさを結び付けていくようなやり方を、漠と描きつつ。
写真は、ビブリオマンシー的に開いた『家のきおく(☆6)』より。
☆1)一部の文学:
例えば、ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直訳『族長の秋』集英社文庫
☆2)「リアリティ」を共有することで繋がれる:
ある種のネットワークで「参入儀礼」が重視されるのも、大雑把に言えばそういうことだろう。だとすると、「自己参入」で繋がるネットワークの脆さ/自由さの理由も「想像」に難くない。
☆3)「正しさ」って何なんですか?:
夏休みのある雨の日、傘をさして登校の上花壇の水やりという重大な責務を果たしシアワセを感じていられるような彼らが「ルールを守る為」に、多くの助かる命が助からないような事態を招きかねない場合、「正しい」ダメ出しは正しく必要だろう。
「誤用」が事実上「正解」になるケース_それはそれで問題ではある訳ですが_などについても、改めて考えさせられ。例えば【破天荒】という語の場合がそうで、新明解国語辞典第八版から一部抜粋すると、「だれしもしたことのない事をする△こと(様子)[単に豪快で大胆な性格の意に用いるのは誤り]」とあるが、まさに辞書で「誤り」とされている意味に用いることが、慣用的に、つまり事実上「正解」となっている。
☆4)音声学的にはアレだけど、音韻論的には問題ないっしょ:
音声学的/音韻論的の違いについて、「音声学は物理的で音韻論は心理的」という説明を目にし、なるほどと思ったことがある。早い話、「音声学的」は音の「出方」、「音韻論的」は「聴こえ方」に注目した場合ということでしょう。
☆5)リアル/アストラル:
四大に当て嵌めるなら「土/風」の関係とも言える。
☆6)家のきおく:
建築家 みかんぐみ/作画 加藤朋子『家のきおく』インデックス・コミュニケーションズ