才能について僕が考えること
才能論みたいなことは僕なりにもう答えが出ていて、どうでもいいと思っていたのだけれど、最近、周囲や音楽界やらSNSやらでよく話題が出るので、改めて考えをまとめてみます。
才能というのはある意味で実体のない概念だと思っています。
有るとか無いとか考えた時点で捕われてしまう。
そして、僕にとっては、もし仮りに才能というものが実体として有るとして、その才能が僕に無かったとしても、望むような結果が出ないとしても、音楽を作り続けることには変わりがないのです。
以前、芸術世界と生活世界とがあると書いたことがありますが、才能という概念はおそらく生活世界に属するもので、たとえ偉大な芸術家が才能を意識したり口にしたりする時でさえ、それは芸術世界には属していないと思うのです。名辞以前の創作の根源には何ら関係がない、雑念の類いのように感じるのです。偉大な芸術家にも雑念を抱くことがあると思います。そして、それが無自覚か自覚的かは様々だと想像します。
だから、才能が有るとか無いとか考える暇があったら、少しでも多く芸術世界に心をリンクさせたいと日頃思っています。
またこの考え方は、音楽以外の分野でも凡そ当てはまることだと考えています。
スポーツやビジネスのような分野でも才能という概念はよく出て来ますが、やはり、質を高めたり結果を出すための直接的な要素と才能という概念は、実体として実質的に関係していないように感じます。身体的特徴(体が大きいなど)は才能の概念とはまた別の物理的要素だと思います。
ただ、惑わされやすいのは、各分野でとても高い能力を持って結果を出している人達が「才能」という概念をさも実体として存在するかのように話すことが多いからだと考えています。僕の推測でしかありませんが、それはその人達が語る「才能」とは自身の現在の能力や実績の要因をまとめた概念的な総体であって、生まれつき備わっている何らかの実体を差すわけではないということです。
また、生まれ育った環境などの要素によって、有利不利が厳然と存在するとは思います。でもそれは、外的要因であって「才能」ではないと考えます。
僕自身の話をしますと、中学からずっと音楽をしたいと望んで来ました。
高校でも大学でも軽音楽部に所属しましたが、僕よりも技術もセンスも高いと感じる人はすでに沢山いました。自分のことを天才だと勘違いしていたのは高校1年までです。また、僕は大学時代に部の主催するコンサートへの出演を果たしたことが一度もありません。2つのバンドを率いて僕なりに努力をしたつもりですが、100人近くいる部のオーディションに4年間で一度も合格したことがなかったのです。さすがに当時は「自分には才能がない」とか「(人との関係作りも含めて)何て不器用なんだ」と思い、悔しい思いをしました。今は才能云々はどうでもいいですが、当時の悔しさは片時も忘れたことがありません。
大学を出て社会人になってからも、僕は音楽を自分なりに続けています。
そして、いろいろなライブハウスなどでライブをしたり、音源制作をしたりしましたが、大勢の人々に認められるという結果(世間で言うところの成功)を得るには至っていません。ただ、その結果を得るためにすべきことを全てやりきったとは言えないと思っていますが……。
ともあれ、僕に特別な能力があると思っている人は少ないことでしょう。
それでもやるのです。
なぜなら、音楽を探究するのが楽しいからです。もう若いとも言えない年齢ですが、健康をキープして一生音楽を探究したいのです。誰かが既にやったようなことでも、僕にとって新鮮で心惹かれるものであれば探究します。それが成功につながるかは分かりませんが、表現したいことは増える一方で、日々自分の中で成長を実感して、喜びを感じています。
葛飾北斎のように長生きして最後まで創作を探究していたい。
そう考える人間に、才能が有るとか無いとか、大した意味があるでしょうか。世間で言うところの成功を得れば嬉しいですが、得なくても楽しいですし、幾らでも課題に取り組めます。そして、ただ孤独に創作に勤しむだけではなくて、創作を通じて人とコミュニケーションをとることもまた楽しみなのです。
他人は僕と同様にいろいろなことを言います。
才能の無駄遣いだと僕に言った人もいれば、他の優れた人と僕を比較してこき下ろす人もいます。売れる方向を向いていないと言う人もいます。でも、だからと言って、僕自身の創作への情熱が失われることはありません。過去には散々戸惑いもしましたが、今はその点だけは迷いがない状態です。
なので、若くして売れたミュージシャンが、才能が無い(と思っている)人々をSNSなどで蔑んだりすることがあるのは、とても違和感があります。自分の表現の道から一時的に逸れているように見えます。それでも彼らは今持てる高い能力を発揮して、結果を出せるのかもしれませんが、つまらない雑念を払えばもっといいものが作れるだろうにと思ったりします。余計なお世話ではありますが……。
少し話のベクトルを変えてみます。
「成功」と「才能」、この2つの概念は親和性があると考えます。
「才能+努力」が「成功」に繋がると考える人は多いかと思いますし、僕も概念的にはそう思います。
ただ、ここで言う「成功」とは、富・地位・名誉を得ることとイコールだと思います。そこに芸術的あるいはその他の質的向上が無いと言いたいわけではないですが、世間で「成功」と呼ばれている概念は、おそらくそういった結果に属するものにプライオリティが置かれていると思います。
つまり、人より抜きん出ること、優越したいという価値観が強い人ほど大きな「成功」に拘泥する傾向があるように思います。(そうでない人もいるとは思います)
また自分の話になりますが、僕の父は「成功」にこだわる人でした。今はそうでもありません。齢を重ねて悟るところがあったのだと思います。昔の父は、出世欲と成功欲が強く、僕にも「人として生まれたからには夢を大きく持て」というようなことをよく言ったものです。「一発当てる」といったことを強く望む人でもあり、孫正義や三木谷浩史のような、現代のビジネス立志伝級の成功を夢見る人でもありました。ヒーロー志向、或る種のヒロイズムとでも言いましょうか……。
その影響は僕にもありました。
世界的なギタリストやIT長者に憧れた頃もありました。その経済的成功とヒーロー的な人気をとても魅力に感じていたのです。
そして、そこに大きな勘違いがあったように或る時点から思うようになりました。能力や才能の有無を考える以前の問題です。富や人気にプライオリティを置いて意識をフォーカスしていては、本来的な価値観を見失いかねないと今の僕は考えます。
富や人気にプライオリティを置いて「成功」した人は絶対数的には少なくないでしょう。でもその成功は、結果を出すのに必要な「能力」を良いタイミングで得て実現したものであって、努力も運も含め、条件が揃えば「成功」に至るのだと思います。ただ、この「能力」を構成する概念的な要素として「才能」と「努力」を挙げる人が多いように思います。確かに、結果を出すのに必要な「能力」を得るのに、「努力」だけで事足りるようには思えないかもしれません。いわゆる「ムダな努力」をいくらしても結果には結び付かないといったことです。ただ、それは「努力」の解釈の違いでしかなく、結果に結びつかない努力を努力とは言わないというスタンスで考えれば、結果に結びつくような本当の努力をすれば、努力だけで事足りるとも言えるわけです。この「結果に結びつく努力」にはどの方向にどれぐらい努力をすればいいかを感じ取るセンスが必要で、そのセンスのことを人は「資質」や「才能」と呼ぶことが多いのかもしれません。しかしながら、僕はこのセンスが生まれながらにして有るものだとは思いません。それは生い立ちの中で触れてきた環境要因によって養われる感覚であって、まさにセンスであって才能ではないと思うのです。つまり、センス(感覚)は実体的に機能する(自己の外側に作用する)ものであって、才能は概念的に思考形態の中に生まれる(実体との関連性がない)ものだと考えているからです。さらに言うと、そのセンスは若い頃だけに磨かれるものとは限らず、それなりに年齢を重ねてから獲得できる可能性もあると感じています。
おおよそ、「成功」というものに対しては、これまでの僕は敗者であり続ける人生を送って来ました。否、負けたと思わなければどんな状況でも敗者ではないのですが、「成功」という物差しで見る限りにおいては、僕は勝ってきたとは言えません。(最早その勝敗の概念には拘泥しませんが……)
しかしながら、「成功」には大きな問題点があると考えます。
それは、「成功者」=「競争の勝者」であり、相対的に勝者の数は少ないということです。なので、誰もが成功者を目指すような、或いは目指さざるを得ないような、過当競争が蔓延る社会では不幸を感じる人が多いと考えます。成功しない人の方が圧倒的に多いわけで。
かつて、僕も成功者を目指して上手く行かなかったのです。競争に勝てない。そもそも人と競り合う状況になった時、勝ちたいという気持ちがあまり強くならない(勝ったら勝ったで少し居心地が悪い)という僕の性格的要素との自己矛盾の問題もありますが、マーケットのブルーオーシャンを探してもなかなか見つからないし、見つかったところでそこで上手くやるのもまた簡単ではありません。そう、僕はこと「成功」を目指す人々の中にあっては、「その他大勢」でしかなかったのです。
勝敗に拘って負けが続く中で僕が考え始めたことは、本当の幸福とは何かということです。
世間で言う「成功者」の中には、幸福ではない人が多くいるようにも見えて来ました。テレビに出てお金と人気を得ている人や、ビジネスに成功した人の中に、幸福そうではない人や真っ当ではなさそうな人が結構いるなぁと。つまり、富と名誉が幸福の絶対条件ではないということです。お金はあるに越したことはないですし、飢えれば不幸を感じる状態になるでしょう。また、人々の称賛を浴びれば気持ちがいいかもしれません。でも、富と名誉が一定以上必ず必要かと言うと、そうでもないなと。
どんな人にも人生の浮き沈みが有り得るわけです。
ならば、幸福に必要な条件は何か。
まずは、最低限の衣食住です。これは無ければ生存に直結するので、前提となります。(ここがまず大変な時代になって来つつあるとは思いますが……)
その上で、必要な条件を考えます。
ここからは、バートランド・ラッセルの「幸福論」とアルフレッド・アドラーの影響を強く受けているのですが、一つは、「過度な疲労を生んだり神経を病むような考え方や行動を避けること」です。過度な「競争」も避ける対象になると思います。そこには、内向的になり過ぎないことも含まれます。過度な内向性を持つことは神経を擦り減らすことに繋がると考えます。子供の頃から学校の先生に「内向的」と言われていた僕が今取り組んでいる課題でもあります。また、この方針が健康と寿命に大きく寄与すると考えます。
もう一つは、「興味を広く持って熱中できるものを持つこと」です。これは僕にとっては音楽(芸術)であり、創作と探究にまつわる諸々が該当します。プログラミングもかつてはそうでした。
社会を見渡すと、学者や技術者、職人はその職域にこの条件が該当する部分が多いように思います。ラッセルは「芸術家は必ずしも幸福を得やすいとは限らない。人々に理解されないことが多いからだ」という風なことを言っていますが、この点には一定の同意をせざるを得ません。ただ、そこには芸術家が承認欲求とどう向き合うべきかという課題が存在すると僕は考えます。ラッセルは承認欲求に関しては踏み込んだ言及をしておらず、むしろそれを或る程度満たすことが幸福(充足感)のために必要であるという風な言い回しが見られます。このことは、意識の内向性を避けて外向的であろうとすることが精神の健全性と幸福に繋がるという考え方に基づいているのだと思います。ラッセルの外向性を推奨する考え方には僕も概ね同意しています。
そして最後に「他者存在への敬意を持って接すること」です。変にへりくだることは逆に敬意を欠くと考えますし、また上から目線などは以ての外です。僕は上下の人間関係の在り方にはアドラーと同様に否定的に捉えています。先輩後輩といったような関係の中に「美しい形」は存在すると思いますが、抑圧を生まずに実現されている例の方が少ないと考えるからです。人生の先輩は水平面上の前方を行く存在であって、垂直面上の上方にいる存在ではない(上下関係ではなく前後関係)というアドラー心理学の人間関係の捉え方に概ね同意します。その上で基本的に相手の存在(スタンス)に敬意を払うことが、抑圧を生みにくい関係性の構築につながり、幸福に必要な条件となると考えます。
今挙げた条件は、おそらく「大きな成功」よりも幸福のために必要なことだと考えます。そこには「才能の有無」という概念がほとんど入り込む余地がないと思えるのです。やはり、「才能」の概念は「成功」には必要な場合があるとしても、幸福の絶対条件ではないと思うのです。
もう少し別の視点でも考えてみます。
あまり深く突っ込んだことは言えませんが、僕が影響を受けている哲学者にジャン=ポール・サルトルがいます。サルトルの思想の代表的なものに、「実存は本質に先立つ」と提唱した実存主義があります。
これをざっくり簡単に考えると、現象や物質が先にあって本質はその解釈の在り方に過ぎないと言えるかと思います。サルトルの著作を読むともっともっと深い所に引きずり込まれますが、ここではこれぐらいの浅い意味で扱います。
この実存主義的な視点でいくと、「才能」は解釈的な或る種の本質であって「実存」より先立つものではないと考えられると思います。ちょっと哲学に照らすにしては簡単に捉えすぎかもしれませんが、今の僕にはやはり「才能」は概念であって実体ではないと思えるのです。だから、才能の有無を問題にすることが不毛であると感じられるのです。能力も然りです。能力は何かを実現するために必要なことが多い条件ではありますが、現時点で足りないことを嘆いても大した意味はなく、足りない人の尊厳を傷つけるようなことを言うのもそれ以上に不毛だと考えます。才能や能力の有無に捕われずに、自身の課題に率直に継続的に取り組むことの方が本来的だと思うのです。ある時点で見切りを付けて別の課題を見つけることもその継続的実践に包含されると考えます。ただ、この実存主義は、突き詰めた個人主義の一形態とも思えるので、組織運営の実践のような組織論には直接応用できないと感じています。まず個人がどうあるべきかということと、群体としてどうあるべきかについては、それらの集合図に重なる部分と重ならない部分があると思います。
もちろん、思想史的にサルトルの実存主義には後に批判もあるようですし、個人主義的スタンスにおいても絶対的に正しい考え方とは言えませんが、今の僕にとってはしっくりくる部分が多いです。一方でしっくり来ない点もあるのですが、そこは僕の思索が及んでいない領域を含んでいるので、今は何とも言えません。今後、僕の思想的な捉え方がどう変化するかは分かりませんが、変わることを恐れずにいたいです。
途中から幸福論が入り込んだり、多少取り留めを欠きましたが、僕の現時点での才能についての考え方は以上のようなものになります。
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