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【ゆっくり学ぶシルバーバーチの霊訓】36

※本文中の引用文は記載のあるもの以外は、
『シルバーバーチの霊訓(一)』潮文社刊
アン・ドゥーリー編
近藤千雄訳
よりの引用です。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。

なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

J.S.Mウォード(ワード)が著し、浅野和三郎が訳した『Gone West(邦題:死後の世界)』という本があります。

その後半部分。陸軍士官と呼ばれる人物が地獄のどん底まで落ちて、そこから霊界まで這い上がってくる物語があります。

浅野氏の軽妙な翻訳で活劇調に描かれているので物語としても面白いのですが、様々な知識を得てから読めばその内容の重大な真実性に気がつくようになります。

陸軍士官は地獄のどん底で王として君臨するほどの意志の強い人物である為、霊界に入ってからもメキメキと頭角を表して指導的立場に就く事になります。

また、オーエンの『ベールの彼方の生活』でも一度どん底まで落ちてから這い上がって来た霊に対して、高級霊は『自分に欠けているものを持っている…』と察する場面が描かれています。

全ては経験です。
どのような間違いを犯したにしても、どれほど遠回りをしたにしても、私たちはいつかは必ず神のみもとに帰るのです。

今現在が苦しくても、永遠の尺度から見れば必ずその経験が役に立つ時が来ます。ですから、私たちは今置かれている場所で最善を尽くして生きなければならないのです。

世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

私たちはどれだけ頑張った所で誰かを変える事は出来ません。何故なら、相手には自由意志が備わっているからです。自由意志は神から与えられた誰にも侵せない法則です。

ナザレのイエスは、人には我が身をもって手本を示す事をなさいました。言葉ではなく、立派な行いをしている事を誰かが見れば、それを見た本人がその人を見習うようになる、という訳です。

私たちは日常において、誰かを無理やりに変えようとしがちです。しかし、それでは決して良い結果は得られません。人を変えたければ、まず自分が変わらなければいけないのです。そして、相手が理解してくれる事を待つという忍耐も必要です。人間が変わるというのは、一朝一夕でできる事ではありません。長い時間と努力が必要なのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

真理を知って感動して、それを大切な人にも伝えたいと思うのが人情というものですが、これは絶対に受け入れられない人には受け入れられません。真理は自らが求めない限りは手に入りません。

ですから私たちができる事は、いつでも自らを真理としておくという事です。

自らの想い、言葉、行ないを正して常に人のために、を心がけて生きる姿が真理そのものなのです。

生きていれば大変な事、嫌な事が現れて来ます。しかし、真理を知ればそのような困難も自らの糧として進んでいく事ができるようになります。

そのような姿を見てはじめて、人は自らを正そうという気持ちが芽生えるのです。それは自分のためにもなりますし、私たちが接する全ての人のためにもなることです。

そのような生き方こそ、真理を学んだ者の取るべき道だと思うのですが、いかがでしょうか。

今日はここまでとします。

人が成長するのには時間がかかるものですが、しかし自分は全く成長していないと思っていても、着実に私たちは育っているのです。そうなる事が、摂理だからです。

Capella✝️


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