しきから聞いた話 134 はたらく御守
「はたらく御守」
東の空が、仄明るくなり始めた早朝、珍しい訪問があった。
窓際の文机の上に、ネコくらいの大きさの獅子がおり、ずんと太い四肢を踏ん張って、こちらをぐいと見上げている。獅子の背には、蜜柑くらいの大きさの蓮華座が乗っていて、ハツカネズミのような、白いものが乗っている。薄暗くてよく見えないので、近付いてみると、耳が長い。これは、ウサギだ。
蓮華座を背に乗せた獅子。そして、ウサギ。
覚えがあった。
これは、二週間ほど前に頼まれて作った御守が、形を変じて現れたものと思われた。生まれた時から身体が弱く、入退院を繰り返している女児のためのものだ。
女児はウサギ年生まれ。卯年の守り本尊は、文殊菩薩。文殊さまは、獅子に騎る。そのお姿をそのまま現されたのでは恐れ多い。小さなウサギにやつして下さったのは、お気遣いか。
女児に、何かあったのか。
ウサギの丸い瞳をじっと見つめると、鳥がさえずるような、高い声を上げた。
「熱が高い 下がらない 祈って 」
承知した。
祈祷を行う者に、何の力があるわけではない。
お救け下さるのは神仏だ。いま祈るべきは文殊さま。何をどうして欲しいか、ではない。丸ごと、おまかせする。唯々、女児本人の生きたいという心、親や周囲が願う心を、そのままにお届けして、おまかせする。それしかない。
昼過ぎになって、女児の家へ出かけることにした。
行こうかどうしようかと迷ったが、祈祷の間、ずっと文机の上にいた獅子が、終わるとすぐに机からとんと降りて、玄関の方へ行った。ついて行くと、こちらを振り返り振り返り「出かけよう、一緒に行こう」と言いたげに、見上げる。これは行かないといけないな、と思い、出ることにした。
女児の家は、電車で二駅なので、そう遠くはない。ただ、女児もその両親も、いま家にいるかはわからない。けれど、わざわざ連絡をしたのでは、いらぬ心配をかけるだろう。もし無駄足になったとしたら、それはそういうことなのだ。それに、家まで行けば、外からでも何かしら、様子がわかるだろう。
獅子は、外に出て歩き始めたあたりで、姿を消した。
そのかわり、ウサギが左肩に乗ってきた。
ハツカネズミほどの大きさのウサギは、震える小さな声で時々
「大丈夫 大丈夫」
と鳴いていた。
降りた駅からの道を早足で歩き、角を曲がって玄関の前へ、というところで、女児の母親が、目の前に立っていた。
驚いた顔で、こちらを見ている。
「びっくりしたわ、どうして、」
玄関の脇に停めてある車からは、父親が降りてきた。
「え、どうしたの。舞子、連絡したの」
「いえ、してないわ」
近くに用事があったから、ちょっと寄ってみたのだ、と言うと、母親がぎゅっと眉を寄せ、じわりと涙を浮かべた。
「いつもありがとう。そうなの、珠里、今朝また入院したの」
とにかく中へどうぞと招かれて、母親について中へ入る。
上がって廊下のつきあたりがリビングで、いつもはそちらへ通されるのだが、母親は手前の階段を上がっていく。
「ごめんなさい。ちょっと、見てもらいたいものがあるの」
階段を上がってすぐの右手が、子供部屋だ。
「今朝、珠里を病院に連れて行くときに気がついたんだけど、これ、」
母親は、ベッドの枕元から、白い小さな布袋をつまみ上げた。袋には、長いひもがついている。
「こないだ下さった御守ね、汚しちゃいけないから、このガーゼの袋に入れて、珠里の首にかけてあげたの。珠里もとっても大事にして、お風呂に入るとき以外は、はずさなかったのよ。でもね、」
差し出された袋を受け取ると、中身がなかった。
「今朝、病院に行くときに気付いたの。どういうことかしら、珠里は、もう、どうにもならないってことかしら」
泣き崩れそうになった母親を、父親が支え、肩を抱いた。
「何言ってんだよ、大丈夫だよ」
父親も、言葉とは裏腹に、暗く疲れた顔をしている。
そのとき、足元に動くものがあった。
獅子だ。
ネコくらいの大きさの、背に蓮華座を乗せた獅子が、足元を歩いていく。
獅子はベッドの枕辺の下まで行くと、ひょいと飛び乗った。
ああ、戻って来たよ、と声をかけると、母親が枕元を見て声を上げた。
「あぁっ。どうして。何で」
そこにあったのは、白い御守だ。
きっと、女児は、大丈夫だろう。
文殊さまは、御力をより強く、確実に表わされるために、祈祷を望まれたのだろうか。
それとも、疲れて気弱くなっていた両親に、守っているぞとお示しになるために、動かれたのか。
母親は、御守をぎゅっと握りしめて、何度もつぶやいた
「もう大丈夫。大丈夫。大丈夫」
そうとも。
文殊さまと、そして何よりも誰よりも、生きようとする女児自身の力を、心から信じようではないか。