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しきから聞いた話 124 晩秋の虫
「晩秋の虫」
縁側に面した障子を少し開けて、風を入れながら、座敷で本を読んでいた。
柔らかな風の中に、幽かな想いが漂ってくる。
虫かな、と気を留めたところで、声になった。
「懺悔します、お救い下さい、懴悔します」
絞り込むような、苦しげな声。女。この声は、虫ではない。
「自ら望んで、この姿となりました。けれど、思っていたのとは違う。こんなに、どうしようもなく、やるせなく、悲しいとは」
死にかけている。
話して楽になるなら、そうすればいい。
聞こう。
「想い焦がれる人がおりました。寝ても覚めても、何をしていても、その方のことばかり想っておりました。けれど、想っても、想っても、心が届かない。この想いに、応えてくださらない」
それは、生身でのことか。
「左様でございます。わたくしはその方の、すぐ近くにおりました。お手伝いをし、言葉を選び、好まれるように振る舞い、いつもお姿を見つめておりました」
女の見ていたものが、伝わってくる。
好ましい人物。誰にでも優しく、正しく接する、温かい笑顔。
女にとって、理想的な存在だったのだろう。
ただ、その人物も、所詮はひとだ。正しく優しいばかりが、本質ではなかっただろう。
女にも、それはわかっていたはずだ。
「あと一歩、踏み込めれば、あの方のすべてがわかったはず。そして、わたくしはきっと、あの方のすべてを受け入れて、さらに深く、深く、想うことができたはずなのです」
そんなふうに思い込むから、あと一歩を許されなかった、望まれなかったとは、思わないのか。
びりびりとした、振動のようなものが伝わってくる。
悲しみか、怒りか。ささくれた心を、かきむしるような、痛み。
「望まれたかった。想われたかった。もっともっと近くに、あの方にとっての唯一に、なりたかった。なれるはずだった。わたくし以上にあの方を想う者はいない。わかって差し上げられる者はいない。わたくしだけが、本当に、あの方のためになるのに」
だが、それはかなわないことと知った。そして。
なぜ、虫になった。
「いっそ、嫌われてしまいたかった。いいえ。嫌われたくはない。ただ、忘れないで欲しかった。いつも、いつまでも、何かにつけ思い返して欲しかった。心の中に残りたかったのです」
虫になって、そうして。
「わたくしを殺して欲しかったのです。叩き殺して、とても嫌な想いをして、そうして忘れないで欲しかったのです」
しかしそれでは、虫がおまえであることが、伝わらないではないか。
「わたくしでなくていいの。どうせ、わたくしの想いには応えてくださらないから。ただ、虫を殺すたび、見るたびに、嫌な想いをしてくだされば」
心が、壊れたか。
しかし、その望みすら、思う通りにはならなかった。
だから、ここにいる。
「はい。あの方は、殺してくださらなかった。もう、行くところもありません。苦しくて、辛くて」
女の想いが、途切れとぎれになる。
もう、命が尽きるか。
「懺悔します。お救い下さい。お救い下さい」
香の煙が静かに立ち昇るように、虫は天に還っていった。
陽が西に傾き、風が冷えてきた。
もう、虫の季節も終わりか。
障子を開けてみると、縁側に、虫の亡骸がこそりと落ちていた。
緑の色の鮮やかな、カメムシだった。