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しきから聞いた話 42 大蜘蛛
「大蜘蛛」
温泉地の外湯の湯舟の中で、久しぶりに四肢を思いきり伸ばしてゆっくりと、顎まで湯に浸かって目を閉じた。
少し、慌ただしく過ごしていた。
人と人の間に立たねばならず、澱のような濁りが溜まっていたものを迂闊にも引き受けてしまった。思いのほかたいへんだったので、それを湯に溶かし出すような気分で、脱力してゆっくり呼吸する。
この温泉地は鄙びた味わいのある街並みに、古くから十ほどの外湯があった。地元の人々も日常的に入りに来ており、湯治客との交流が互いの楽しみともなっている。交通の便の悪いところで、取り立てて名所や旧跡にあたるものも無い。ただ、泉質がとても良く、柔らかく、病み上がりでも負担にならないので、昔は長逗留する者も多かったそうだ。外湯は自治会の管理という規則があるが、実際には誰か気が付いた者や手の空いた者、それこそ長逗留で勝手知ったる者などがゆるゆると動くといった塩梅だ。ただひとつ、地域の人達がこれだけは一丸となって頑固に守っているのが、テレビ雑誌などの取材は一切お断わり、という一点だった。
彼等に言わせると、ここは湯治場であって、観光地ではない。宿はあるが旅館と言うよりは、共同宿泊施設といった感覚だ。だからといって、貧しいだのみすぼらしいだのは当たらない。余計な飾りが無いだけで、外湯も宿泊所も、どこも清潔で気持ち良かった。
ここは確かに、長居したくなる。そんなことを何とはなしに考えながら、目を開けた。白い湯気の向こうに、乳白色の天井が見えーーるのだがーーうむ。
たいへんなものが、居た。
天井に、蜘蛛がいる。
蜘蛛といってもただの蜘蛛ではない。
八本の脚を自然に広げた状態で、四畳半いっぱいくらいの大きさだろうか。風呂場全体で長方形の二十畳、その一角の……いやはや頭が混乱して、大きさの見当がつかない。おそらく四畳半、九尺四方と見ていいのではないか。
体の部分、つまり頭と腹、これはそれほど大きくはない。大きくはない、とはいえ持ち重りのする西瓜よりふた回りはあるか。湯気の向こうではっきりはわからないが、つるりとした体ではなく、ごわっとした短い毛の質感が見てとれる。色は、黒みがかった深い、濃い緑色だ。
こそりとも動かない。たいした高さのない風呂場の天井では、さぞかし蒸し暑かろうと思うのだが、もしやそれを心地好しとする種類の蜘蛛なのだろうか。
落ちてきたら嫌だな、と思った。
特段、この蜘蛛の正体を知りたいとも思わない。お先に失礼することにして、ざばっと腰を浮かしたら、声が降ってきた
「お若いの、落ちたりはせぬよ。ゆっくりしていきなさいよ」
古い大きな鈴(りん)が、うおおんと響くような、不思議と耳に心地好い声だった。