しきから聞いた話 182 立春の小鬼
「立春の小鬼」
毎年の開花を楽しみにしている梅が、散歩道にある。
天満宮の鳥居の下に植えられて、おそらく100年は経っているだろう。今年も順調につぼみが膨らみ始めていた。
立春の朝、もう遠目にも春が萌している。さて咲いてはいないものかと近付いていくと、梅の根元に、中型犬くらいの大きさの、何かがいた。
「まあまあ、そう、へこまずに。おまえがよく働いたということじゃないか」
これは梅の声だ。何かを、慰めているようだ。
よく見ると、それは、鬼の子供だった。
「あぁ、おはよう。そうだ、あなたからもこの子に、何か言ってやってくれないか」
どうしたんだい、と小鬼の顔をのぞき込むと、眉尻を下げた情けない表情で、こちらを見上げた。
「ひどい目にあった。ほんとに。ちょっと、怖かった」
じわり、と目に涙が浮かぶ。
「昨夜、鬼やらいに行かされたのさ。ひとりで。初めてだったんだよなぁ」
「ととさま、かかさまと行ったときと違った。もっともっと大きな声で、怖い声で。豆をぶつけられて。追い回された」
梅の話によると、これまで小鬼が親鬼に連れられて行ったのは、大晦日の寺社で行われる、追儺の鬼やらいばかりだったそうだ。
「あれはほら、決まった儀式だからね。優しくぽかりとやるくらいだよ、ね」
ところが昨日。節分の夜。
「前から、ととさまには言われてた。もう、ひとりで、町にもひとの家にも、行かないといけないって。だから」
小鬼はそこでまた涙を浮かべ、ぎゅっと唇を噛んだ。
「旧市街に行ったそうだ。あのへんは、ほら、行事となると、荒っぽくなるのが多いから」
さらに梅が言うには、この小鬼の一家は、この天満宮の眷属だという。天満宮といえば、菅公。菅公は讒言により左遷され、非業の死をとげ、怨霊と化して御所に雷を落としたと言われる。
「雷を上手に出すには、うんと修行しなきゃいけないんだ。修行して、強くならないと。かかさまの雷は、すごいんだ」
小鬼は、唇をとがらせてうつむいた。
「大丈夫だよ。おまえもちゃんと、立派に、雷を出せるようになる。ねえ」
梅は、何か言ってやってくれと催促する。
さて。
修行をしなければ、とわかっているのは、たいしたものだ。
修行をすれば、きっと強くなれる。では、何が強くなるのだろう。
昨夜は、何が怖いと思ったのだろう。
「豆。すごく痛くて、当たると、熱かった」
豆は、魔滅とも言うからね。でも、修行をすれば、きっと体が剛健になって、豆なんて痛くない、平気になるよ。
「青い、とげとげの葉っぱも、怖かった」
ひいらぎだね。あれは、鬼の目に入るとたいへんだ。でも修行をすれば、目に入らないように、うまくよけられるようになる。大丈夫だよ。
「鬼は外、って怒鳴る、ひとの声もすごく怖かった」
これは難儀だ。
ひとは鬼を恐れ、その心からなるものを、鬼が恐れる。
さて、どう言ったものか。
「あぁ、それはね、違うんだよ」
梅が、助け舟を出してくれた。
優しい声で、諭すように語る。
「ひとが追い払いたいのは、本当は、鬼じゃないんだよ。鬼という言い方で表した、ほかの色々なもの。たとえば病いとか、事故とか、不幸だと感じること。ひとは、ただ寒いというだけでも、不幸だと感じてしまうものだ。でも、寒さはいつまでも続きはしない。年の巡りは寒さの次に、必ず暖かな春を連れて来る。それを守っているのは、誰だろう。知っているかい」
小鬼は、ぽかんと口を開けて、梅の木を見上げた。そして、ふるふると頭を振った。
「知らない」
「かみさまと、かみさまのもとで働く、おまえ達だよ。おまえ達は恐ろしい姿でひとの心に、不幸とは何かを感じさせて、そうしてから、それはいつまでも続きはしないよと教えてやれるのだ。わかるかい」
「わからない」
梅は、ふふふ、と笑ったようだ。
「いまは、わからなくていい」
それでは、とつぶやいた梅が、何やら動き始めた。
「おまえ達が守っている、かみさまと巡りの力を見せてあげよう」
言い終わらぬうちに、梅のつぼみがひとつ、ふたつ、ふわっ、ふわっと開き始めた。
みっつ、よっつ、いつつ。
「さあ、どうだい」
小鬼は目を見開いて、口をぽかんと開けていた。
やがて、にこりと笑う。
「きれい。嬉しい」
この先、春を迎えるたびに、小鬼は強くなっていくだろう。そしてこの小鬼の強さは、ひとと巡りに、幸せを運んで来るに違いない。