しきから聞いた話 51 白蝶
「白蝶」
不案内な山の奥へひとりで行くのはどうしたものかと逡巡していたが、ひとが同行したのでは上手くいくまいと思い、出掛けることにした。
まだ台風の季節には早いものの、南の天候には慣れていない。詳しい知人に教えを乞うて準備を整え、久しぶりに小型プロペラ機に乗り込んだ。
そこは、雨の多い地域だと聞いていた。山の高さと地形、海の潮流などの複雑な関係性によるのだというが、そちら方面の話はよくわからない。ただ、今回の用向きには空模様への注意が必要だったから、準備を手伝ってくれた知人から、ひと通りのことは教わって来た。
山奥の、今は修験しか歩かなくなった尾根道を行くと、ほんのわずか開けたところに、杉の大木と小祠がある。ここが目的地だ。
ここを、蝶の大群が通るのだという。
理由は知らない。空に道でもあるのだろうか。ただ、理由や理屈はわからなくても、きまり通りのことをすれば、望みは達せられる。それでいいと思っているので、余計なことは考えない。
ここを通る蝶の一羽に、羽を返しにきた。目的はそれだけだ。方法は、友人から聞いている。
一年に数回巡って来る日を選び、朝方に雨が降り、昼前から晴天となったその夕刻、陽の光で充分に身体を温められた蝶達が、大群となって西の海へ向けて飛ぶのだという。なかなか条件が揃うのが難しいのではないかと尋ねると、返すべき羽を託してくれた友人は、人を小馬鹿にしたように笑った。
「この日、と決めたら、条件は揃う。そういうものさ。そんなこともわからないのか」
言葉の後半は軽口だとわかっている。言い返さずに黙っていると、追い討ちをかけてきた。
「そんなんだから、この巻数が入用になるんだね。まあ、こちらとしては、お役に立てて誇らしいけどね」
たいした嫌味だ。それでも、こんな遣り取りができたのは、後にも先にも、この友人だけだった。
あのとき抱え込んでしまったのは大きな頼まれ事で、気がついたときにはもう、独りでは負い切れなくなっていた。話すと友人は、巻数を持って、来てくれた。訊くまでもない、心身を削るようにして祈り込めた、護符だった。
頼まれ事は、魔事なく円成した。友人の巻数は、彼の言った通り、手の中で蝶の羽に変わっていた。
友人はあのときにもう、命数の尽きる日の遠くないことを知っていたのだろう。それにしても、なんと惜しげもなく、身を削ってくれたものかと呆れる。
陽は西に向かっていた。
心を鎮めて待っていると、やがて数羽の白い蝶が、ひらひらと舞い飛んで来た。
手のひらほどの大きさの、真っ白な蝶。しかもその羽は金属光沢を持って、螺鈿のような虹色の輝きを放っていた。手の中にある一枚の羽も、同じ白さ、同じ虹色の光を帯びていた。
数羽だった蝶が、増えてくる。十羽、五十羽、百羽。千羽。五千羽、一万羽。その頃には羽音がもう、まるで山を流れる川の水音のように、辺りを包んでいた。
手を開き、目を上げる。
わかるだろうか。
ゆっくりと、開いた手を天に差し伸べてゆくと、はるか頭上の大群から、一羽が真っ直ぐに降りて来た。
左の、後羽を欠いている。それでも、ひらひらと美しく飛んで来る。
名前を、呼んだ。
蝶は、頭上で三回、くるくると輪を描いて飛んだ。
手の中の羽は、舞い上がり、あるべきところへ戻って行った。
白い蝶達の群れは、西の空へ流れてゆく。
その先が、必ず、浄土であるように、祈った。