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母の墓参りから考えたこと

🔷夏休みが終わった。
まず、我が家にとって大切な母の初盆があった。
友人が石材屋さんなので、お墓をお願いしてあった。
暑い中、大汗をかきながら仕上げてくれたお墓。
いつか僕も妻も子どもも入るであろうお墓。
昔ながらのクラシックな和型墓石でなく、
現代風というかモダンなデザインの洋型墓石。
墓石として選んだのは、佐賀県の天山(てんざん)御影石。
これは、石のサンプルを見て、また石材屋さんである友人の意見も聞いて、
品質がとても高い墓石にすることを父と決めた。
墓石もそうだが、墓のデザインもその違いや相場が何にもわかっていなかったのだが、こうして話を聞いたり、調べたりしているとだんだんと知らなかったことがわかってくる。

納骨の際に、必要なのは、「般若心経」の写経だった。
人生で初めて「写経」というものをした。
よくお寺で坐禅や写経をして心を鎮めるというが、いろいろな気持ちが浮かんでは消えてまた浮かんでという中で、写経をしていたら、気づいたら2時間くらいかかっていた。心を込めて般若心経の写経を書き終える。

納骨では、僕と弟が書いた写経を下に敷いた上に、壺から出した遺骨を納骨袋に入れて置き、そのまた上に父の書いた写経を上に被せた。
納骨は、令和6年8月2日、暑い暑い夏の炎天下であった。
納骨まで勤めてくれた石材屋さんの友人には感謝ばかりである。

そうして、初盆。8月13日の夕方に供花をして、蝋燭に火を灯し、
迎え火をして母を家に迎え入れる。8月14日朝に墓参り。
8月16日には送り火をした。

遠く離れた父母のお墓参りやこのようなしきたりを結婚してこちらに移ってきても毎年大切に欠かさなかった母。大変だっただろうけど、墓参りするたびに祈るように、またこれまでの日々を一気呵成に伝えるように手を合わせながら礼拝している母の姿があった。

人はなぜ墓参りをするのだろうと考えた時に、これまで考えていなかったことが 今年は、思い浮かんだ。亡くなった人の言葉や願いや面影や遺してくれたmindが
今でも自分の中にあることを、植っていることを確かめ、思い新たに、また日々の生活を送れるように人は墓に参るのだろう。

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🔷母の残したレコードを再生するためにこの夏、レコードプレーヤーを買った。
母のお気に入り「オフコース」一辺倒のラインナップに、
僕好みのZiggy  AlbertsとCaampと
Jim CroceとJackson BrowneのLPが並んでいる。

今、Ziggy AlbertsのHeavenという曲(母を思ってZiggyは書いたものではないと思うが)を聴きながらこのnoteを書いている。

その歌の中にlove's kind of like the oceanという歌詞がある。
You just got to learn how to swim, because No one's ever said that it's better out than it's in. ともある。

愛は、海のようなもの。泳ぎ方を学ばないとね、だって誰も海の中より海の外の方がいいなんて言わないんだから。

生きているということは、
愛の中で生かされているということを人はいつか気付かされるのだろう。
それは、海の中にいるだけでは気づかないのかもしれない。
誰かの愛の海から上げられて、海岸からその海を見ることになって、
ああ、愛の海にいたんだなぁ、入っていたら気づかなかったんだなあと
やがて気づく。そうして人は、強く、思いやりのある人になり、
またその人の愛の海を広げていけるのではないだろうか。

人が時々海を見たくなるのは、そんなこともあるのかもしれないなぁ。



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