「純粋所作のこころみ」最上和子さんの舞踏
最上和子さんの踊りを見てきた。
最上さんは舞踏家で「身体の内部から踊る原初舞踏を模索」されている(最上さんTwitterより)。その深淵な言葉に惹かれて、弟でもある押井守監督との対談の本も購入して読んだ。
今回「ユリシーズ集会 純粋所作のこころみ」に、定員30名のところ100名の応募があったとのことだがその抽選を突破して集会に参加することができた。
場所は北千住のこじんまりとした小さな集会所。
(北千住は初めて降りたが、駅の大きさと街の雰囲気にちょっと驚いた)
教室より狭いくらいの空間に、観客は一方の壁に寄って座布団、子ども椅子、丸椅子に座って開演を待つ。
待ち時間、誰もスマホ見てない。各々じっと待つ。
プログラムはパフォーマンス30分、トーク(質問、感想)60分となっている。
時間になり、白い衣装を纏った最上さんが現れ、踊りが始まった。
ゆっくり、ゆっくりとした動きだ。
ゆっくりには理由がある。
通常私たちはサッサと動いてしまう。
お茶を飲むという動作ひとつにしても、サッと湯呑みを掴んでサッと口まで運ぶ。それに対し「所作」にはゆっくりした動き、必要のない動きがある。
サッと動く時、身体は空っぽになっている。ゆっくり、ほとんど止まっているかのようにゆっくり動く時、はじめて内側が存在している。
ゆっくりの限界まで、ゆっくり動くとき、魂は圧縮される。
最上さんの動きを見ている時、私は頭の中でつい言語化していた。
鳥のようだとか少女のようだとか、生命誕生のようだとか死と再生のようだとか。
けれど内発の動きは表象とは違う。
30分間のプラグラムのためには構成も必要であり、そこは行き来しつつ踊りながら編集するのだそうだ。
腕を一ミリ持ち上げるのに魂を呼び寄せ、身体に満たす。
わずかな段差を一歩踏み出して降りる時、観客はそこに断崖絶壁を見る。
踊る時瞳は何も映していない。
どこにも焦点を合わせない。そうすることで、目に見えるものと見えないものが並列になる。
……
トークタイムのお話をもとに幾つかのポイントを振り返ってみた。
ユリシーズ「集会」という名の通りそこは観客も参加者として「場」を形成している。小さなスペースに凝縮された場の空気に、正直私は最上さんのレベルに遠く及ばない観客たちの煩悩の圧を感じた。皆何かしら答えを求めて最上さんの踊りを観にきているのではないだろうか。
やはり踊りはシャーマニズムと切り離せない。
会場ではユリシーズの活動記録冊子も販売されていて、最上さんの言葉もたくさん掲載されているので購入した。
読むのが楽しみだ。
失われた身体の内側に、ゆっくりした動作で魂を呼び戻す。
とても興味深いし、また機会があったら見に行きたいと思う。
追記)
個人的なことなので記事に書きませんでしたが、最上さんが踊り始めたとき、私には去年の8月に亡くなった母に見えて、涙が込み上げました。そのことは感想としてトークタイムでお伝えしましたが、個人的な思い込みでどうなんだろうと思っていました。
その後最上さんがTwitterでこのようにおっしゃっていたのでホッとしました。
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