吉原遊郭と遊女の歴史
廻れば大門の見返り柳いと長けれど…
樋口一葉「たけくらべ」の冒頭部分である。大門は吉原遊郭の唯一の出入り口、見返り柳は門の外にある柳の木で、遊廓で遊んだ男が帰りに名残惜しんで後ろを振り返ったことからこの名がついたとされる。「たけくらべ」は淡い初恋の物語だが、14歳の主人公美登利はもうすぐ妓楼に出されることが決まっている。
私は短大の卒論で樋口一葉について書いたのだが、二十歳の小娘は「たけくらべ」について書きながら吉原の遊女という存在について深掘りすることを思いつかなかった。なんとなく哀しい場所というイメージだけでスルーしていた。
そういう人は多いのではないだろうか。
文学や芝居、浮世絵で描かれた遊女の哀しくも美しいというイメージ。それで吉原遊郭をわかったつもりになっていないだろうか。
現在「大吉原展」という美術展が開かれている。吉原の非人道的な側面に蓋をして、文化の発信地的な捉え方で見せようとするキュレーションが開幕前に炎上し、運営はステートメントに人権についての記述を追加したようである。
観ないで批判するのもなんだが、行く価値を感じないし入場料を払いたくもない。
ただこの違和感、不快感、怒りの根拠を自分なりに納得したいと思い、吉原の歴史について知るための本を読んだ。
「江戸の色町 遊女と吉原の歴史」
安藤優一郎 監修
なぜ幕府公認?
幕府と遊女の結びつきは、源頼朝が1193年(建久4)に富士の裾野で行った大規模な巻狩り(軍事訓練)に遡る。休日には酒宴を開き、遊女が呼び寄せられた。頼朝は遊女たちの取り締まりを行う遊君別当という役職を設置した。
その後、室町幕府は傾城局を設置した。遊君別当との違いは官許の鑑札を与え、税金を遊女から取り立てたことである。税金欲しさに遊女は幕府公認となった。
1603年(慶長8)徳川家康が江戸に幕府を開くと、各国から武士、職人、人足が集まった。男性ばかりで人口が爆発的に増えたことに目をつけた駿河や上方の遊女屋が江戸に移転してきた。
江戸の傾城屋は繁盛し、楼主たちは合同で幕府に対し公認の遊女町をつくりたいと願い出た。
幕府は治安維持の目的と、繁盛し続ける遊女屋を監視下におく体制として1617年、遊女町を公認した。
吉原の構造
吉原が建設された人形町一帯は葭や茅が生い茂る湿地帯だった。それで「葭原」と名付けられ、のちに縁起のいい「吉」の字に変えたという。
その後、風紀の乱れと治安の悪化を嫌った幕府により日本堤へ移転となった。
人工的に四角く整備された吉原の区画は総面積約20,767坪。周囲には忍返を植えた黒板塀がめぐらされ、その外側に「お歯黒どぶ」と呼ばれた幅二間(約3.6メートル)の堀があった。出入り口は大門一つのみ。これは遊女の逃亡を防ぐとともに、不審者を取り締まるためである。この中に遊女と吉原の関係者、商人や職人など合わせて約一万人が暮らしていたという。
吉原の遊女屋は格上から格下まで大見世、中見世、小見世、切見世の四種類に分かれていた。
大見世は間口十三間(約24メートル)、奥行き二十二間(約40メートル)という広さで中庭もあった。最下級の切見世は、長屋を間口四尺五寸(約1.4メートル)、奥行き六尺(約1.8メートル)に割って部屋をつくった。壁はなく仕切りは襖一枚だった。
遊女の調達
遊女になる女性は、ほとんどが身売りという形で吉原にやってきた。
江戸幕府では人身売買を禁止していたため表向きは奉公という形で、実際は貧しい親が給金の前借りと引き換えに娘を遊女屋に売り渡したのだ。
仲介したのが女衒である。
親の要求で遊女屋を斡旋する女衒を町女衒、諸国を巡って貧農の娘を探し出しては親を口説き、娘には甘言を弄して遊女屋に売り飛ばす女衒を山女衒といった。
このような遊女たちは家族を救うために身売りした孝行者として、周りから非難されたり社会から蔑視されることはなく、年季が明けたら差別を受けることもなく普通に結婚する遊女もいたという。
一方で楼主に対しては社会的な差別があり、「天道に背き、人道に背きたる業体にて、およそ人間にあらず。畜生同然の仕業、憎むに余りあるものなり」(『世事見聞録』江戸時代後期の随筆)と痛烈に非難されている。
しかし、楼主を差別し蔑む世間とはなんなのだろうか。娘を売る親、売らざるを得ない貧困を放置している幕府、遊郭というシステムを許容している社会で生き、遊女の納めた税金を含む国で生きる国民すべてが共犯なのではないだろうか。
遊女の労働条件
遊女屋への身売りにあたっては契約書が取り交わされた。
不通縁切証文…家族との縁を切り遊女屋の養女になる。それまでの養育費として親が金を受け取る。
遊女奉公人年季請状…年季を定めて遊女屋の下女奉公に出すことを認めさせるもの。前借金として親が金を受け取る。
年季奉公は十年。ただし遊女として働ける年齢(十五歳)より前に売られた場合、十五歳になるまでの期間は年季に含まれない。定年二十八歳。切見世の遊女に定年はない。
前借金には膨大な利子がつけられ、布団や衣類などの日用品はすべて遊女の自己負担で、さらに付人となる遊女見習い「禿」「新造」の分の衣装代なども遊女負担であり、とても返せないので年季十年を務めあげなければならなかった。
給金はなく収入は上客からのご祝儀のみ。
上客を繋ぎ止めるために真心を示す方策として切指(指を切って男に与える)、放爪(爪をはぐ)、入墨(◯◯命)などがあった。新しい馴染みができて入墨を消すときはお灸で焼き消した。
休日は盆と正月の年2日のみ。それ以外に休む時は自分でその日分の揚代を払わなければならなかった。
病気になってもめったに休むことは許されなかった。治療を受ける場合も自己負担だった。
稼ぎの悪い病気の遊女は行灯部屋(薄暗く湿った部屋)に入れられてろくに食事も与えられず、そのまま死亡する者も多かった。
生理で休めるのは二日のみ。
鍋炭(鍋の底に付着した煤を溶いたもの)を飲むと生理がはやく終わるとされて飲まされた。
ほとんどの遊女が一年以内に梅毒に感染した。ろくに看病もされず症状に苦しんだ遊女が自殺することもあった。
避妊は効果のあやしい薬や膣内洗浄など。妊娠すれば堕胎するしかない。堕胎方法は水銀入り膣座薬、腹部圧迫など危険なもので、命を落とすこともあった。
遊女が死亡すると、ほとんどは死体を筵に包んで投げ込み寺の墓地の穴に投げ込んで終わりだった。
寺の記録によると死因に絞死、殴死などもあり、折檻による死亡もあったことが窺える。
明治以降
明治政府は当初遊女屋を問題視せず上納金を納めさせていた。
外国の価値観を取り入れたり、国際問題として指摘され、芸娼妓解放令が交付された。
遊女屋は貸座敷と名を変えて残り、遊女は自分の意思で営業しているという建前に変わったが、遊女の意思は尊重されなかった。
キリスト教的倫理観が入り込んだことで、遊女に対する差別が生まれ、遊女自身が自由廃業を求めるようになった。政府は娼妓取締規則を制定し、遊女の自由廃業を公式に認めた。
現実には遊郭はなくならず、昭和になっても困窮者による身売りは続いた。
1956年(昭和31)国会に売春対策審議会が設置され、同年五月売春防止法成立、二年後本格施行、吉原は340年の歴史に終止符を打った。
現在、吉原跡地は風俗街になっている。
終わりに
もしもの世界、江戸時代の人権意識で、支配層が男でなく女だったら、男の性欲を抑える薬と称して鍋炭を飲ませていたかもしれない。
言うまでもなく性欲を処するために他者の人権を侵害してはならない。
この本のまえがきは、目を疑う驚くべき一文で締めくくられている。
苦界十年と言われる遊女の実態について、ここまで詳細に記しておいてこの寝言はいったいどこから来るのか、背筋が寒くなる思いだ。