属性の違う似たもの同士
実は中高の教師のTwitter(新x)のアカウントを知っていて、覗いたこともある。かくいう今も覗いた直後だからこの記事を書いている。
内容は教師としてのものでも、もちろんわたしに関係のあるものでもなく、ただ本人が好きなことを投稿している。
私立だから副業もおそらく許容されていて、音楽活動をしているようだ。
ただ、投稿を少し遡るだけで、もしかしたら教師が副業なのかもしれないことに気づく。
いや、生業は教師なのだろうけど、本人の意識が教師なのか音楽家なのかで言ったら後者だろう。
そんな彼女のアカウントやnoteを拝読して、自分に似た部分を感じる。
簡単に言うと、言葉が好きで、純粋で、捻くれているところとか。
彼女のいう言葉には何の興味もないのだが(ごめんなさい)、彼女の内側に興味があるし、わたしの内側も見てほしいと思ってしまう。どんなに時間が経ってもわたしのなかでは「先生」だから、褒めたりしてほしい思ってしまう。
属性は違うが、持っているエネルギーの大きさが似ている気がする。
万が一先生の目に触れることがあったら、一緒にするなと言われるかもしれないが。
興味ない文章なのに無意識に読み進めてしまうのはきっと、“先生が書いた文章”ではなく“文章を書いた先生”に興味があるからだろう。
卒業して強気になっているからかこんな文章を書いているが、実は迷惑をかけた先生トップ5に入る先生でもある。
わたしは課題が出せなかった。
先生を見かけるたび逃げて、目を合わせないように生きていた。
もっと話してみたかったのに、自分のせいで話せなかった。
先生が顧問をしていた表現研究をするいわゆる“演劇クラブ”の子たちが羨ましかった。
この先生に限らず、そういう相手がわたしには多い。
そんな人たちに届かないここで、メッセージを認めさせてほしい。
主に課題を出さなかった科目の先生へ(英語、現代文)
わたしは今、足踏み多めではありますが少しずつ前進しています。母数が多くないのですが課題もすべて出しています。
向き合ってくれた事実は確実わたしの中に残っていて、先生の中では劣等生の1人にすぎないかもしれませんが、しっかりと愛を感じていました。提出した課題に描かれる絵が好きでした。
読書感想文なんかは、こんなnoteをやるくらいなので嫌いなわけではなかったです。今からでも書いて提出したいくらいです。
ただ当時のわたしは、自分の中が散らかっていて、自己と他者の区別が曖昧で、流動的なものでした。やるべきことと、やりたいことの区別もできていませんでした。その液体みたいな自身の中に、小さな結晶が析出して、今では「海外の露店で売ってるアメジスト(¥800)」くらいの大きさになっています。時々ヒビ入ったり、砂嵐を浴びて表面が濁ったりしていますが、それでも簡単には壊れないところまできています。
先生と生徒として出会ってしまった以上、一生埋まらない谷はありますが、どうかお元気で。