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脱成長と狩猟採集:『マンガ人類学講義 ボルネオの森の民には、なぜ感謝も反省も所有もないのか』

 脱成長

 知識人が近年、口をそろえて経済成長の限界を指摘し、脱成長を奨励しはじめています。 

 さらに近年では地球環境への関心の高まりからか、環境保護運動家たちの温室効果ガスによる気候変動への問題提起がなされ、それはいつしか世界的な波となりわが国でも環境大臣の鶴の一声で脱炭素政策が掲げられ、2020年よりプラスチック製のレジ袋が有料化されたのは記憶に新しいです。

 そのような運動も脱成長と相性がいいのか反対の声をあげる知識人はほぼいません。  

 それに加えて新型コロナウイルス感染症のパンデミックは世界経済を一変させる自体へとなりました。このコロナ禍が先に記した脱成長や反資本主義、そして環境保護運動の波を衰退させるか、というとそのようなことは無く、むしろアフターコロナを生き抜く鍵こそが脱成長なのだ、と主張する人も少なくありません。 

 ではその脱成長論者達がどのような社会を目指してるか?それは人によって様々ではありますが大まかにまとめると・・・「物が無くても心が豊かな社会」になるのでしょうか。

 その是非はともかくとして、1つ疑問があります。

 「物が無くても心が豊かな社会」とは具体的にどのようなものなのでしょうか?

 そのモデルケースを具体的に提示している人物を私は寡黙にして知りません。

 しかし、「脱成長」に完全に迎合することはなくとも、私たち庶民も時々、次のようなことを思います。

・「なんのために働いているのだろう?」
・「なぜ働かなければならないのだろうか?」
・「そもそも生きるために本当に労働は必要なのだろうか?」

 これらの疑問は、朝、眠気を抑えながら布団から抜け出す時や、上司に叱責されている時、残業に追われ最終電車の座席でうつらうつらしている時にも湧き上がるかもしれません。

 これらの感情を一瞬の気の迷いと見なすこともできますが、私たちが厳しい現実に直面しているときには、このような問いかけが本当に必要な場合があります。

 我々は文明社会の下で生きており、当然ながらその恩恵を当たり前のように甘受しています。インフラが整備されているために夜も灯りがつき凍えることも無い。水道を捻れば当たり前のように水がでるし、もし夜中に腹が減っても冷蔵庫に備蓄された食料を電子レンジで温めればいい。仮になくても車を走らせ近くのコンビニまで買いに行くことも出来る。欲しいものがあった時はamazonを使えば何日後には手元に届く。
 そしてそこに住む全員が、そのインフラを維持するために労働という形で日々対価を払っています。
 もし労働を放棄したいのであれば、それは社会、そしてその恩恵からの離脱を意味するのです。
 大抵の人々は、「割に合わない」と思います。
 しかしそれでも、理屈では分かっていても「本当に働かなくてはいけないのか」という疑問は付きまとう。それは我々文明人にとって、ある種の根源的な疑問だからではないのでしょうか?
 もしかして我々の根本はいまだに狩猟採集民族のままではないのか?

 確かに農耕により多量の食糧を恒常的に確保できたおかげで我々人類はそれにより余剰分のエネルギーを文明への発展へと向けることがでしょう。
 しかしその反面、農耕はその土地の自然環境を根こそぎ変えてしまう破壊活動でもあります。さらに土地ごとに採れる作物の量により格差も生まれる。そして豊かな土地や水源の所有権をめぐっての争いも多発します。
 農耕の発達は文明を発達させ、同時に貧富の格差を産み、戦争を起こしたのだと主張する著名人もいます。  

 つまり、農耕自体がまだ人類にとっては過ぎたるモノだったのではないでしょうか?

 最近では日本でも縄文ブームが起こり、狩猟採集生活が主だった縄文時代は争いがない平和なユートピアだった...と盛んに宣伝されました。
 もっともそれには多数の疑問の声もありますが...。

 ここで、今一度、我々人類の原点である狩猟採集民族の視点に立ち返って見る事も重要かもしれません。
 そして現代でも実際に農耕をせずに暮らしている人々はまだこの地球上に存在しているのです。

狩猟採集民族から学べ

 脱成長、「物が無くても心が豊かな社会」のヒントになるかもしれない、とある少数民族の生活を記録した本を紹介したいと思います。

 所有はともかくとして感謝も反省もない?表題を読んだ人はちょっとドキッとするかもしれません。
 我々人類が社会を、そして人間関係を円滑に回すためには、感謝も反省も必要不可欠な潤滑剤だというのは、あたりまえの共通認識であるからです。
 それが無い、というのはどんな社会集団なのでしょうか?
 この本では文化人類学者である著者が狩猟採集民族であるプナンの人々と衣食住を共にした記録が漫画形式で紹介されています。

 本の構成としては、大まかに漫画と文章による解説という2部構成となっています。漫画は全九章からなりプナン人の基本的な生活、価値観、そして性事情などがそれぞれ詳しくピックアップされて描かれています。

 プナンの人々の生活を学術的に分析する場面だけではなく、仏教の観点から読み解く場面も描かれています。

 この世の苦しみから解放される為のヒントをもつ仏教。プナンの人々の生活の中にその仏教的な要素があるというのならば、前述の「物がなくとも皆の心が豊かな社会」へと繋げられるのではないでしょうか?

 加えて一つ。著者はプナンについて書かれた本を少し前にもう一冊出されています。

こちらは 2018年発売であり、先に紹介したものが2020年発売の為、2年のギャップがあります。が、少なくとも個人的には2冊を読み比べてみて、フィールドワークを通してプナン人の生活について記した内容にそこまで差異はないと感じました。

 この記事では「マンガ人類学講義 ボルネオの森の民には、なぜ感謝も反省も所有もないのか。」を主軸としながらも、補完として「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」からも引用しながらプナン族の暮らしを読み解きつつ、言論人の推奨する“脱成長”の為のヒントがないか探っていきます。

プナン族とは

 そもそもプナン族とはいかなる人々なのか。それにはまず彼らが住む場所から説明しないといけないでしょう。

 東南アジアのマレー諸島に位置するボルネオ島。島といってもその面積は世界第三位の大きさであり実に日本列島の2倍の広さを誇ります。

 太平洋戦史に詳しい方であれば「ボルネオ島の戦い」が起こった場所という事ですぐわかるのではないでしょうか。

 現在は三ヵ国に分かれており、島の北側がマレーシア、南側がインドネシアそして真ん中あたりにブルネイ王国という領土配分となっている。この島のことをマレーシアとブルネイではボルネオと呼び、インドネシアはカリマンタンと呼称する。つまり各国によって島の名称が変わる少々ややこしいことになっています。

 そのボルネオ島には様々な民族が居住していますがその中でもプロト・マレー系先住民のうち、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称がダヤク族です。さらにそのダヤク族も生活様式によって様々なグループに分けられます。 
 そしてその中でもジャングルの奥地で狩猟採集生活をする人々がプナン人なのです。

 彼らはボルネオ島の北部のマレーシア領サワラク州、その内陸部に住んでいます。
 プナン人の総人口は2007年の統計資料によれば15,485人になるといいます。
 そのプナン人も居住地区や言語の違いなどからブラガ川を挟んでさらに大きく東プナンと西プナンに分けられ、今回紹介する本で取り上げられているのはブラガ川上流に住む約500人ほどの西プナン人達です。

 プナン人の特徴として一番に挙げられるのは、彼らが狩猟採集民族であることでしょう。

 プナンを除くダヤク族のほとんどが焼畑農業を生活の基盤にしているのに対し、彼らは野生動物を狩りサゴヤシという植物を採取しそこから澱粉を抽出して食料としています。その為、生活は常に流動的であり、一か所に留まることをしません。
 今暮らしている場所で動物やサゴヤシがとれなくなれば彼らは今住む住居を離れ新しい場所に家を作るのです。

 家を作る、と言っても我々が想像するようなものではありません。むしろその外観は小屋といったほうが良いです。それを大工などはいない為、自分達で一から作り上げるのですが、その為の設計図はありません。その場所にある材料を使って作るのです。例として二本の木が並んでいるとそれを支柱代わりにしたりもする、など臨機応変に作っていきます。

 これは彼らが獲物の移動によって居住地を常に変えなければいけない狩猟民族であることも関係しています。
 常に平坦とは限らないジャングルの複雑な地形において、設計図のような統一化されたマニュアルのようなものは家を作る際に逆に邪魔になってしまうのです。

 そしてこの「すぐに家を作り、住居を変える」というのはプナン人の生き方を端的に表しているものなのです。

働かず、生きる為に食べる そして出す

 我々日本人の大部分においては平日の朝、眠りから覚めて真っ先に考える事、それは「仕事」ではないかと思います。
 自分の仕事に誇りを持っていようといまいと、生活するためにお金を稼がなくてはいけない以上、1日の大部分の時間は労働となります。そして必然的に労働を中心にその他のライフスタイルが組まれていくといっていいでしょう。
 我々は働くために生きている、と言っても過言ではないかもしれません。

 狩猟民族であるプナン族に我々の常識は当てはまりません。彼らが朝起きて真っ先に考えることは「なにを食べるか」です。
 なんだ我々と同じじゃあないか。と思った方も多いと思います。
 しかし、プナンの人々にとっての食事は、我々とは意味合いが異なります。
 狩猟採集民であるプナンにとって、食べるとは狩猟であり採集です。サゴヤシの澱粉の備蓄がまだあればそれを食べますが、なければ川で漁をしたり森で狩をして食糧を得なければいけません。
 「何を食べるか」が彼らのライフスタイルの中心であり、プナンにとって生きることは食べることです。
 食べる事と生きることが直結している。これを解剖学的に言えば口から入れた栄養を肝臓に備蓄するプロセスそのものだ、と解剖学者三木成夫を引用して作者は述べます。
 それに対して、農耕民族は植物・穀物・動物を育て、すぐには体内に入れずそれを外部に備蓄します。つまり栄養を内臓(肝臓)ではなく一旦「外蔵」に溜め込みいつでも取り出せる様にしておくのです。
 さらに文明が発達すると、この外蔵器官はますます延長・複雑化していき食料ではなく「貨幣」を溜め込む様になります。その紙幣を、遠いところで生産し備蓄された食糧との交換に使用する様になったのです。
 我々現代人は、食料だけではなく様々な物を
「外蔵」しています。それらを手に入れるためにはまず貨幣を入手することに専念せねばなりません。その貨幣を入手する為の「労働」に従事する過程において、人々はやりがいだとか生きがいを見出す様になる、と作者は述べます。
 それに対して文明が作り出した高度な外蔵システムの外で暮らすプナンの人々にとって食糧調達の過程はシンプルであり、またそれ故に大変です。
 先に書いた様に、サゴヤシの澱粉が無ければ川や山に食料調達をしに行かねばなければなりません。彼らの1日の大部分は食糧調達に費やさられます。
 獲物が取れなければ何日も空腹のまま暮らさなければなりませんが、狩に成功しイノシシなどが手に入ると早速調理され、口に運ばれます。そして食べたいだけ食べるのです。
 ...ここで皆さんは「食べたいだけ食べる」と聞いて、どのようなイメージをするでしょうか?
 膨れた腹をさすりながら満ち足りた表情を浮かべる...大体がそんな感じだと思います。
 プナンにとってのそれは我々からすると「壮絶」といっていいかもしれません。
 腹が膨れ限界を超えても食べ続けます。その結果、嘔吐する者もいますが吐いた後も苦悶の表情を浮かべながら口に物を運びます。
 最後は眠りに落ち、そして眠りから覚めるとまた食べます。1日に4〜5回ほども食事を摂るそうです。なにしろ次にきちんと食べられるのはいつなのか分からないのですから。
 当然その結果、腹を下し酷い下痢に見舞われる者もいます。その場合狩猟小屋から直接地面に撒き散らしたり、または森の中に駆けて行ってそこで下痢便をします。
 用を足した後は木の枝を使って尻を拭きます。地面の糞便や嘔吐物は彼らが飼っている猟犬の餌となります。
 腹を壊した時だけではなく、プナンの人々は普段から森の中の糞場で用を足しています。州政府が作ったトイレはありますが、彼らはそれを物置にしており使おうとしません。
 プナンからするとトイレというものは「薄暗い狭い場所で人がすでに用を足した場所」という認識だからです。彼らには彼らなりの衛生概念があるのですね。
 そして糞場を通り過ぎる際に他人の排泄物を見つけると、その色や匂いを話の種に会話に花を咲かせます。
 「食べる」定義が違うのであれば「出す」定義も我々とは違う。これが狩猟採集民族なのです。

プナンは謝らないし反省しない

壊れたまま返す

 作者がフィールドワークをしていく中で抱いた大きな違和感として、プナンの人々が謝罪も反省もしない事を挙げています。
 バイクやバイクのタイヤに空気を入れるポンプを貸したところ、それらが壊れたとしても謝罪の一言もなくただ黙って返すだけで反省する素振りもなかったそうです。
 これはプナン人同士でも同じであり、例として、他人の所有物を盗んで酒を買う金にしてしまう癖があるプナンの男の話がでてきます。その行為を妻や家族に咎められても、彼は全く改善する様子が見られませんでした。
 対策の為、共同体で会議も開かれましたが、「男に反省や改善を促す」という方向性に話は進まず、最終的に個々が物を盗まれないように管理を徹底する、という結論に落ち着いたそうです。
 そもそもプナン語には「反省」に対応する言葉自体が存在しない、と作者は述べます。
 たとえば、漁や狩猟の際に個人の過失により獲物を取り逃したとしても、プナンはその「個人」に責任の追求や反省を求めたりせず、時間や場所や道具など共同体としての方向性の問題として取り扱う、と作者は述べます。
 話し合いはしますが、やはり個人の責任は追求はせずにあまり効果が期待できない対策がたてられる事が多いそうです。
 反省は大切な事である、という認識の我々からするとビックリしますね。

プナンの時間感覚

 プナン人はなぜ反省しないのか、これは見方を変えると、我々はなぜ反省をするのか、そもそも反省とは何か?という考え方もできるでしょう。

 ここで作者の主張を見てみましょう。

反省しないことは、プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないかという点である(「 5  森のロレックス」参照)。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。

引用元:『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』


 我々文明人は直線的な時間軸の中で生きており、未来を見据えて人間的に成長する為に“反省”を必要としている、というのが作者の主張です。
 そもそも過去から未来へ一方方向に流れる時間の観念ができたのは人類が農耕や牧畜を始めてからのことではないか?食糧となる作物や動物を確実に育て備蓄し、どれくらいの期間それが保つのかを正確に把握する為には絶対的な時間軸が必要だったのではないか?と作者は仮説を立てます。
 それに対してプナン人は反省以前に、そもそも我々とは異なる時間軸で生きている、と作者はつづけて述べます。

狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。

引用元:『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』


 プナンの人々に生年月日がいつかを聞いても、老若男女、答えられる人は誰一人いないそうです。誰々より先に、誰々より後に生まれた、という相対的な基準はありますが、我々現代人のように西暦や年号、月日などの絶対的な基準は持たず、常にあやふやなのです。
 これは彼らの暮らす地域が熱帯であることと無関係では無い、と作者は述べます。
 四季がなく気温の変化が少ない熱帯雨林の中でノマド(遊牧民)として生活してきた彼らには「時系列」は必要なかったのだろうと。
 さらに加えて、彼らの社会は皆を束ねるリーダーはいるにはいますが、基本的に平等であることも、序列の基準となる絶対的な時間軸を必要としない理由では無いか?と作者は推測しています。
 先に書いた様に彼らは失敗をしても反省をしませんし周りも反省を促しません。集団の問題としてやんわりと処理されます。
 プナン語に「未来」や「過去」対応する言葉が無いわけではありません。が、それは非常に曖昧で相対的です。
 プナンの人々は「将来わたしはこうなりたい、こうしたい」ということを口にしないそうです。
 発展や向上という概念がないのであれば、そして都市部など遠方へ出かけることなく、生涯を通して森の中で自己完結する生活を送るのであれば、「反省」というものは最初から意味をなさないのではないでしょうか?
 彼らは常に「今」を生きているのです。


プナンと贈与

 上では反省しないプナンの生き方を紹介しました。しかし、だから彼らにモラルや善悪の価値観が無い、という訳ではありません。
 彼らには彼らなりの“徳”があるのです。

かつてマレーグマだけに尻尾があり、他の動物たちにはなかった。マレーグマの尻尾は格好よく見えた。動物たちはマレーグマのところに出かけて行って、尻尾を分けてくれるように頼んだ。マレーグマは来る動物来る動物に、気前よく尻尾を分け与えた。最後にテナガザルも尻尾をねだりにやってきた。しかしその時には、マレーグマに尻尾の手持ちがなくなっていた。それで、今日、マレーグマとテナガザルには尻尾がない。

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』


 これはプナンの民話ですが、マレーグマが沢山あった尻尾を皆に分け与える描写から分かるように、物は溜め込まず気前よく分け与えるべきだ、という訓話でもあります。
 実際、プナンの人々は物を所有するということをほとんどせずに、他人が欲しがるとすぐに与えてしまうそうです。
 例として、作者がお世話になっている家族に日本からのお土産を持っていくと、すぐにそれを欲しがる他人の手に渡るといいます。
 遠く離れた場所の全くしらないプナン人が、お土産の日本製ポーチを身につけていたこともあったそうです。
 彼らにはそもそも「所有」の概念がないのです。
 作者が日本から持ち込んだ段ボール箱を勝手に開けて中の食料を食べてしまうことも当たり前の様に起こりました。
 しかし悪い事だけではありません。
 プナン達の狩りに同行した際にイノシシが3頭獲れました。それを売ったところ540リンギ(※マレーシアの貨幣 日本円で約13,500円)になったといいます。
 狩りは4人で行った為、彼らだけで分けるかと思いきや、ついてきただけの作者にも108リンギの分け前をくれたそうです。
 気前よく分け与える事はプナンでは「よい心がけ」(プナン語で「ジアン・クネップ」)とされています。 
 お世話になったプナン人に贈り物を渡したところ、上記の言葉を受け取ったそうです。作者はそれはお礼、というよりもその「行為」を褒めているように感じたそうです。
 日本で例えるならば、新入社員が早く出社して上司に褒められるのに似ている、と作者は述べます。
 よいこころがけだ(でも当たり前だよね)、と。
 その為、プナンの人々は何かを借りるときもお礼をいいませんし、それを仮に壊してしまっても謝りません。
 物は分け与えるもので共同体内を循環するのが当たり前だから。誰のものでも無いのです。                     
 これが共同体のリーダーとなると、この「分け与える」はさらに顕著になります。
 マレーグマの民話にあるように、持つ者は持たない者に積極的に分け与えなければいけません。その結果、身なりは1番みすぼらしい姿となります。
 プナンにおいてはこれこそがリーダー(ビッグ・マン)としてあるべき姿とされているのです。
 逆に誰にも物を分け与えずに溜め込むだけのリーダーは求心力を失い、やがてその座から陥落してしまうそうです。

 独り占めせずに皆に分け与える。これをプナンは先天的にもっているのではありません。
 実際、貰った飴玉を独り占めしようとした子供が母親に、他の子供達に分け与えるように諭される場面を作者は見ています。
 あくまでも周りから矯正され後天的に身につけるものなのです。
 そして成人になれば“欲”が全く無くなるか、というとそうでもなく、作者がプナンのリーダーにお礼のお金を渡す際に、次からは誰もいない所で頼む、と言われたそうです。もし、周りに人がいたならば彼らに分配しなくてはいけないから。
 彼らにも本音と建前があるのです。

プナンの性 

オープンな夜這い

 セックスは子を残すためにはなくてはならないものであり文化や儀式でもあります。
 生殖のための性行為だけではなく、様々な性行為を含めたものが「セックス」なのです。
 地域により様々な性の文化があり、我々の価値観からするとびっくりするようなセックスの風習を残す地域もあります。

 ヴェネズエラのバリ族の女性は妊娠すると複数の男と性行為をします。そして生まれた子を育てる際にその男達全員から支援を受けます。

 ニューギニアには成人男性が少年に対してフェラチオをさせる部族があります。それにより「男性性」を受け継がせるのです。

 メラネシアでは儀式的な男女対抗の綱引きを行い、勝利した男性陣が女性達に襲い掛かり性行為に及びます。

 所が変わればセックスも変わるのです。

 プナンのセックスについての考えも我々とは違います。
 プナンの神話にはセックスの起源がでてきます。

 大昔、プナンの祖先は争いにより1組の兄妹を残すのみになりました。彼らは途方に暮れましたが、ふと周りを見ると風で木々が揺れ、種を落としてそこから芽がでています。兄は閃きました。
 「そうだ、木の真似をしよう」
 こうして兄妹は木のように揺れて子を増やしたのです。

 この神話から分かるように、プナン人にとっての生殖器は子を作るためのものという考えが強く、射精は必ず女性器の中で行われなければいけません。
 その為なのか(作者が知る限りでは)男女共にマスターベーションをしないそうです。
 男女が第二次性徴を迎えると、好みの相手を見つけるようになります。相手が見つかったあとは男女間での様々な駆け引きや交渉を経て、男性は昼間、女性の家に行き家族と談話をします。
 そこで家族の了承を得ると、男性は夜に再度女性の家に向かいます。あらかじめ家族は別の場所に移り、家には女性1人だけとなっています。そして事に及ぶのです。
 家族公認の夜這いがプナンのスタンダードなセックスなのです。
 そしてプナンにおいて我々のような厳格な結婚制度はありません。先ほどの夜這いによる性愛関係が維持継続されている間が「結婚」だとされています。
 そして現在の相手に飽きたらすぐに関係を解消し、別のパートナーを見つけます。それがプナンにおいての「離婚」になります。この際に、相手が「まだ別れたくない」等で揉めることもほとんどないようです
 そのため、彼らは生涯のうちに何回も結婚と離婚を繰り返します。我々からすると、離婚にはネガティブなイメージがありますが、プナンにおいては非常にカジュアルなものなのです。
 ちなみに2人の間にできた子供はどちらかが引き取り、家族ぐるみで育てる事になります。そのため、非常に複雑な血縁関係になることも珍しくないそうです。

プナンの男の子と女の子

 プナンにおいて、男の子と女の子では育て方の違いもあります。
 まず、子供の勃起はウギ、大人の勃起はアガックと言われ、2つは明確に区別されています。
 男の子達は第二次性徴を迎えるまで裸ですごします。幼い男の子たちは、自分の性器に関心を持ち、引っ張ったりして遊びます。さらには時々、男の子同士でセックスの真似事をして遊ぶといいます。両親のセックスを見てそれの真似をしているんですね。
 成人男性においても、さすがに服は着ますが、男同士の会話の中では、頻繁に「勃起」を意味する言葉が出てきます。親しい間柄でなされる挨拶の「元気ですか?」は「勃起しているか?」と同意義だそうです。
 大人子供問わず、男性において自らの性は非常にオープンなものとされています。

 これが女性となると話が変わります。
 女の子は早いうちから母親や親族から服を着るように仕向けられます。前述のセックスごっこを、男の子が女の子に対してやろうとすると蹴飛ばす位には拒否されます。
 これに関しては、男性の性的な目線から女性を守るため、という考えもできるでしょう。しかし、作者は栗本慎一郎を引き合いに出して別の考えを提示します。
 「なぜ人はパンツを履くか」
 仮に、人々が全裸で生活を始めたとします。それに喜ぶものも最初はいるでしょう。しかし、慣れてくるとそれにうんざりしてくる人も多くなります。
 裸が当たり前となると、そのありがたみが消えてしまう。だからこそ服で覆い隠すことにより過剰をため込み、それを脱ぎ去ったときに興奮するのです。
 「人は脱ぐためにパンツを履いている」これが栗本の考えです。
 つまりプナンの場合は、女の子に早い時期から服を着せることにより、プレミアをつけているのではないか、と言う事ですね。
 女性も上半身を隠さずに暮らす民族の場合、男性は、女性の胸を見ても興奮することがない、という話は私も聞いた事があります。
 女性が服を着ることによって男性が欲望を過剰にため込み、それが夜這いの前段階の交渉の際に女性、そして女性の家族に有利に働く事はあるのでしょう。

プナンにとっての死

 我々は皆等しくいつかは死にます。今後科学がいくら進歩してもこれだけは変わらないでしょう。
 プナンも例外ではありません。
 狩猟民族は“死”に対してどう向き合っているのか見ていきましょう。

 死者がでるとプナンは遺体を棺におさめて土葬します。
 キリスト教やイスラム教でも土葬がおこなわれます。最後の審判の際に死者は蘇るとされている為、肉体を残しておかねばならないからです。
 しかしプナンにおいての土葬はそれらとは意味合いが違います。そもそもプナンには死後の世界のイメージがないのです。
 人は死ねば、ただ消滅するだけ。その為、埋めた後に印となる墓も作りません。そして遺品は残らず焼却され人々は速やかに埋葬場所から離れます。
 これを“埋めて逃げる”と表現したプナン人もいたそうです。
 さらに死者の親族は名前を変えなければいけません。「デス・ネーム」といわれるこの名前は再び結婚するまで名乗らなければいけない名です。この名はあらかじめ決まっており、例えば父親が死ぬと長男の名は「ウラク」になります。母が死ぬとその長男と長女は「アパー」と呼ばれます。
名前を変える事について作者は
・死者の弔いをしている
・親族が亡くなった悲しみを鎮める為
 と2つの考えを提示しています。

 プナンにおいて、死者の名を呼ぶことはタブーとされていて、どうしてもその名を呼ばねばならない時は棺の素材名などを使うそうです(ドリアンの木の男の〜など)。

 プナン人において“死”は忘れ去り遠ざけなければいけないものなのです。

 しかし、プナンが死者に対して薄情である、ということでは決してありません。
 そもそも残された遺族はデス・ネームを日常的に使用します。これは死者に思いを馳せているともとれます。
 さらにプナンの男達は狩猟においてなにも獲れなかった際に帰りの道すがら「ピア・プサバ」と呼ばれるブルースを口ずさみます。

戻ってきたぜ、俺が死んだら残される子どもたちよ  すまない、獲物はぜんぜん獲れなかった  何も狩ることができなかった  嘘じゃない、噓をついたら、父が死んじまう、母が死んじまう  

引用元:『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 この歌には“死”が含まれます。
 自分達が死んだ後に残される子供達の身を案じているのです。
 さらには、ノーズフルートと呼ばれる鼻で吹く笛で死者を想うこともあります。

 プナンは死を遠ざける一方で、名前を変え死者を弔い、自分が死んだ際に残される遺族の身を案じることにより、死との折り合いをつけているのです。

 少し話がずれますが、上記のブルースにおいては獲れなかった動物達への侮辱が許されます。
 逆に言えば、普段プナンは動物を悪しき様に言ったりはしませんし、魚やイノシシなどを獲りすぎたり、それどころか動物の名前を間違えることすらタブー(プナン語で「ポニャラ」)とされます。
 プナンは人も動物もその内面に共通する存在である魂があると考えています。
 死んだ動物の魂が気分を害すと天界にいる雷のカミに告げ口をして災害を引き起こすとされているのです。
 自然と共に生きるプナンのアミニズム的宗教観がわかります。

プナンと仏教

 作者はプナンの人々について、仏教の視点からも論じています。まず、彼らの生き方が完全に仏教の教えと一致しているわけではないと言います。
 仏教において、財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲は五欲と呼ばれこれを制御しなくてはならないとされます。
 先に書いたように、プナン人は食べたいだけ食べ、嘔吐しても食べようとします。そしてその後は好きなだけ眠ります。飲食欲と睡眠欲に関しては節制しているとはいえません。
 さらに夜這いの習慣から分かるように、セックス(色欲)に関してもかなり奔放といえます。これだけ見ればプナンが仏教的とはいえません。
 しかし、五欲のうちの財欲と名誉欲に関してはどうでしょう。
 プナンには所有の概念がありません。物は共同体内を循環するのが当たり前だからこそ、プナンの人々は物を受け取ってもお礼を言わず、誰のものでも無いからこそ、借りた物を壊しても謝罪はしないのです。
 仏教には「布施」と呼ばれるものがあります。施すことにより心の修行をするのです。
 この時に「くれてやる」という気持ちがあるのでは布施ではありません。
 あくまでも純粋な気持ちで大切な物を与えることが布施なのです。
 そこから考えると本当は与えたく無いが、共同体の通念であるジアン・クネップ(よい心がけ)により仕方なく行なっているプナンの贈与は布施とはいえないでしょう。
 ただし...プナン語には「あげる」に対応する言葉は無いのです。「捨てる」ならあります。プナンにとって捨てることは習慣化しており、食べ残しや排泄物などはそこらじゅうにどんどん捨ててしまうそうです。
 そしてプナンの「贈与」も、あげるというよりどちらかというと捨てているようだ、と作者は述べます。
 余計ダメじゃないか、と思う人もいるかも知れません。与えるどころか捨てているのですから。
 しかし、仏教には「縁起」というものもあります。
 「縁」によって「起こる」。この世のものはすべて関係性によって成り立っており独立して存在するものは1つとしてないのです。
 そこから考えると森の中で生きるプナンの「捨てる」は別の意味を持ちます。
 食べ残しや排泄物は他の動物の餌となりますし、中に含まれる植物の種はやがて芽を出し森の再生へとつながります。それはやがてプナンにとっての食料や雨風を防ぐ小屋となるのです。
 プナンの「捨てる」は自然の循環の一部でもあり人以外への分け与えでもあるのです。
 さらに名誉欲ですが、プナンは平等な社会を築いています。リーダーはいますが、人々に物を沢山分け与えるからこそリーダーたり得るため、溜め込むとすぐに人は離れていきます。
 共同体内での「物流の中継地点」としての信頼度の高さがリーダーの素質であり、名誉が欲しければ他者に物を与える(捨てる)しかありません。
 こうしてプナンは名誉欲をコントロールしているのです。

 「全ては関係性で成り立ち、そしてすべてが変化していく」という考えが仏教において重要視されます。人も生きていく上で、他者の助けが必要であり、加齢により肉体は変化し細胞も不断に入れ替わり、考えも変わっていきます。しかし、「変わらない自分」という思い込みがあることによって苦しみが生じるのです。

 プナンは狩猟採集民族であり、彼らの生活は常に流動的です。食糧が豊富な場所に移動し、設計図なしにすぐに家を建てます。その速さは相当なものであり、作者は「家が歩いてきたようだ」と表現しています。プナン神話によれば、大昔は家にも魂が宿っていて、自分で動いていたとされています。
 物事に過度にこだわりを持たないプナンは、物は人から人へ移り行くものであると信じています。リーダーには移り行く物や資源をうまく管理する力が求められます。また、死者の死を隠蔽して、執着しないように工夫する方法も持っています。
 プナンの生き方には、仏教の「全ては関係性で成り立ち、そしてすべてが変化していく」という考えと共通点が見られる、とするのが作者の考えなのです。

終わりに


 近年、知識人の間で、「脱成長」「皆等しく貧乏に」「江戸時代回帰」「縄文回帰」といった言葉が頻繁に聞かれるようになりました。これらは、停滞する経済から始まり、資本主義そのものに疑問を持ち、気候変動や格差、分断を生み出す現状から脱却するための提言です。
 ただ、これらは本当に実現可能なのでしょうか?
 また、資本主義から離れた後の成長のない協同体で皆が仲良く平和に暮らすことは理想でしかなく、実際には残酷で悲惨な日常を迎えることになると、批判する声も少なくありません。

 人類学者エルマン・サーヴィスは、社会進化の4つのレベルを、
・バンド(狩猟採集)
・トライブ(農業)
・首長制(牧畜)
・国家(農耕)
の4段階に分けています。
 包括する人口が増えるほどに、養うための食料を安定的に供給することが必要になります。そのため各段階ごとに食料の獲得方法も変化していくのです。
 今回紹介した狩猟採集民族であるプナンは、上でいうバンドからなっています。
 たしかに今回紹介した本ではプナンの人々の素朴でありながら、資源を独占せずに平等に分配する生き方が描かれています。
 ただし、この生き方をそのまま直接今の日本社会に取り入れる事はできないであろうと私は考えます。

 プランたちが狩猟採集生活を営める最大の理由は、彼らのバンド社会は25名から50名程の規模の集団で固まって生活している為、つまり人数の少なさが最大の理由だと思うからです。もしこれ以上人数が増えれば、プナンたちも狩猟採集のみでは、すべての人々に食料を分配することは難しくなるのではないでしょうか? 

 お礼や謝罪や反省がなくても維持できる社会、確かに理想ではありますが、これに関しても、小さな集団だからこそという気がします。
 さらに、元も子もないことをいってしまいますが、本当にプナンは“反省”をしていないのでしょうか。

プナンが反省しないで生きているというのは、外来の調査研究者である私自身の見方に他ならないということである。現地にしばらく身を置いてみて、私には、そう強く感じられるということである。上で見たように、プナンは個人的には反省しないけれど、集団的には何らかの反省をしているのだと言えるのかもしれない。

引用元:『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 作者も、「プナンが反省していない」というのは作者自身の見方に他ならないことを認めています。
 人の物を勝手に金に換えて酒を買ってしまうプナンの男の話にしても、その男自身は反省をしていなくとも、他の人々が集まって話し合い、そして改善点を見つけ出す事は、集団的には反省しているとも言える、と作者は続けます。

 さらに物を貯めずに循環させる方法にしても、飴玉を独り占めしようとする子供を諭す母親のように、子供の頃からの“躾”が必要です。それも広義での反省と言えないでしょうか?
 さらにジアン・クネップ(よいこころがけ)のもとに行われる贈与ですが、作者はそれを「早く出社する新入社員」に例えました。
 その例えからはある種の同調圧力を感じた、というのが私の正直な感想です。
 ただし、集団生活を営むためには同調圧力は必要な面もあると私は思っています。
 何かと悪者にされがちな同調圧力ですが、社会には必要不可欠なものであり、狩猟採集民であるプナンにおいても、「ジアン・クネップ」というかたちで息づいているのではないか?というのが私の考えです。 

 プナンの性に関しても、日本では非常識とされる夜這いが公然と行われるなど一見すると、我々とかけ離れているように見えますが、男の子は子供の頃から性にオープンであり、それに対して女の子は幼い内から服を着せられるなど男女の育て方の違いを見る限り、「男女七歳にして席を同じうせず」という保守的価値観と根本的な部分では変わらないのではないかと思います。

 死に対する向き合い方にしても、プナンは死をできるだけ遠ざけ忘れ、去ろうとします。
 これも個人的には、日本における穢れの文化を思い起こさせました。
 原始的な狩猟採集民族でさえ、死を遠ざけようとするのだから、何かと悪いことのように扱われる穢れの文化も実のところ原始的だったころから延々と続くものではないか?と思うのです。

 やはり人類が集団で生活する為には、食料獲得の方法が狩猟採集か農耕牧畜かの違いはあるかもしれませんが、何らかの規範は必要なのではないか?そしてその規範の根本の部分は、プナンにしても我々現代人にしても変わりがないのではないか?と言う思いが、この本を読んだことで、ますます強くなったというのが正直なところです。  

 この2冊の本で書かれているプナンの人々の“今を生きる”という生き方から、個人的に学べる事はあると感じます。しかし、やはり社会レベルでそのまま取り入れる事は難しいのではないでしょうか?


 最後までお読みいただきありがとうございます。



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