なぜいじめや差別は無くならないのか
こんにちは。家の中にお菓子が溢れかえってますどもです。ちょっとぐらいの災害にも負けない自信があります。
今日は差別について書きます。
最近ダイバーシティ、女性蔑視、人種差別、いじめなど勉強していて、これってひとまとめで言うと差別が理由なんじゃないかな、と思ったのでこのテーマにしました。
なぜ人は自分と違うものを嫌うのか
いじめや差別はどこにでも存在します。
思い返してみると、小学校、中学校でいじめやそれに準ずる差別的発言、言動はどんな学校にでもあったと思います。
その時に被害者となっていたのはどんな子だったでしょう?
きっとみんなと違う子だったはずです。
肌の色が違う。髪の色やクセが違う。目の色が違う。顔のタイプが違う。考え方が違う。何かが違うことがいじめや差別の原因となりうるのです。
ではなぜ人と違うことがいじめや差別を生んでしまうのでしょうか。
私はこれは動物が持つ「危機回避能力」によるものだと考えています。
我々のDNAには我々が生きている何百年、何千年も前から我々の祖先が残してくれた経験による学びが「本能」という形で受け継がれています。
これによって「見慣れない生き物」に対して嫌悪感を生むように出来ています。
例えば数千年前に自分がある集落で暮らしていた時、別の集落から知らない人がやってきたとします。
その人は友好的なのか敵対的なのか分かりません。
このような状況では警戒心を持って対応することが重要です。
さもないと突然殺されてしまうかも知れないからです。
これらの経験が長い年月を経て、「見慣れない生き物」≒「自分と違う生き物」となり、自分と違う生き物に対してはネガティブな感情を持つようになったのだと私は思います。
それは本当にあなた自身の思いなのか
いや、私は他人をいじめたり、人種や性別なんかで差別したりは絶対にしない、と言っている人も、牛や豚、鶏肉を食べることに何の躊躇もないのではないでしょうか?
おそらくその人はこう言うでしょう。
「人間と他の動物は違うよ。だから人間における多様性は認めるけど、他の哺乳類や動物に関しては適応できないんだ。」
確かにこれは現在社会一般的に通用している概念だと思います。
ですがそれはアメリカの独立戦争前である300年ほど前に、
「黒人は白人とは違う。だから黒人を生まれ育った故郷から拉致して家族と離れ離れに暮らすことも、家畜同様に扱うことも何の問題もないんだ。」
と言っていた人と何ら変わりないと思うのです。
なぜなら、これらはどちらも当時の正論を盾にあたかも自分の意見のように話しているだけだからです。
どこで線をひくのか
私たちは一人一人違います。もっと引いて見ると、どの生き物、植物も違う生き方をしています。
そのため、どこで線を引くかで、どこまでが自分と一緒でどこからが自分とは違うのかが異なります。
私は人類皆、どこで線を引くのか、なぜそこで引くのかを考えるべきだと思います。
現代を生きる私たちには想像もつきませんが、人間が奴隷として存在しなくなったのは長い歴史の中でつい200,300年前のことです。
それまでは多くの人の中で、その線は同じ人間の中にありました。
これが徐々に人間の輪から外に移動し、現在は人間かそうでないかの位置に線を引いている人が多いでしょう。
でもちょっと考えてみて下さい。
なぜ同じ哺乳類で、当たり前のように殺してその肉を食べることが許されているのでしょうか。
なぜ犬や猫は家族だと言いながら、同じ哺乳類の牛や豚を平気な顔をして食べているのでしょうか。
大半の人はこれらのことを考えたことがない、もしくは考えないようにして生きているのかも知れません。
でも歴史が物語ることはこの線は徐々に自分を中心に外側に拡がっているということです。
つまり多様性を認める社会になりつつあります。
さて、あなたは一体どこで線を引きますか?
一人一人が考えることが大事です。それが思想家・革命家的な人間を生み、一般の人のマインドを変え、人類は前に進めるのだと思います。
読んでいただきありがとうございました。また書きますので興味ある方は「フォロー」よろしくお願いします。ではまた。