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「解釈学・系譜学・考古学」読書会私記――永井均の「忘却論」

   本記事は、最初に永井均「解釈学・系譜学・考古学」の概要、次にそれを受けて私が実験的に書いてみたメーテルリンク『青い鳥』の二つの変奏があり、最後に、先日行われた魔神ぷーさん主催の読書会への「あとがき」のようなものを置いた。


 「解釈学・系譜学・考古学」概要

1.私たちは、自分の生をはじめから肯定できる観点を、ぜひとも見つけたいとつねづね思っている。その歩みは、あらゆる過去の思い出や現在のさまざまな出来事を「もともとそうであった」という観点のもとで解釈することを通して、真の幸福をより明確に定義することである。チルチルとミチルが「幸せの青い鳥」を探す旅から帰ってきたあと、家の中にいた鳥が「もともと青かった」と気づくとき、チルチルとミチルは単なる幸福を見つけたのではなく、自分の生をはじめから肯定できる観点を見つけたのである。そのように、自分の人生をいま成り立たせていると信じられているものを探究することを「解釈学的探求」と呼ぼう。

2.それに対し「系譜学的探求」と呼ばれるものは、チルチルとミチルがいま自分の人生を成り立たせていると信じている記憶に、それが虚構でありうるという疑いを挟む。なぜそうする必要があるのだろうか。記憶は、それを信じている当人たちにとって虚構ではありえない。たとえ当人たちに自己解釈の変更が起こったとしても、それは記憶の変更――「もともとそうであった」という解釈学的視点――と分離できないので、もとの記憶が間違っていた、ということが本質的に起こりえない。しかし記憶は(解釈学の)外部の視点からするなら虚構でありうる。「系譜学的探求」の導入は、自分の人生を成り立たせていると今は信じられてはいないが、実はそうであるところのものを探究するために必要なのである。それは「どの時点から鳥は青くなったのか」という視点を導入することではない。そうではなく「系譜学的探求」「いつから、どのようにして、もともと鳥が青かったということになったのか」という視点を導入することである。

3.解釈学的探索が現在の自己と直接的な紐帯を保つことができる過去を全面的に信頼することとは違って、系譜学的探索のそれは、過去と直接的な紐帯をもつ現在の自己そのものを疑う。それゆえに、チルチルとミチルのその後の人生の自己評価に決定的な影響を与えていながら、彼ら自身には何の記憶内容も残さなかった、しかし、その(決定的な影響の)記憶を成り立たせた当のものではあるような、そういう過去を問う。こうして「ある時点で青くなった」と「もともと青かった」という一見すると共立不可能な二つの単線的な時系列は「ある時点でもともと青かったということになった」という複線的な時系列へと「統合」される。しかしまた新たに納得のいく自己解釈を作り出した系譜学的探索ならば、再び解釈学に転じる可能性に開かれているだろう。つまりチルチルとミチルは「ある時点で‥‥になった」という痕跡を消去して「もともと青かった」という解釈学的探索に「乗り換える」ことができるということである。そしてまた系譜学的視点が導入され‥‥と反復することになる。

4.解釈学に決して転じないような過去への視線を「考古学的探求」と呼ぼう。その探求では「ある時点で‥‥になった」や「もともと青かった」という単線的な時系列のみならず「ある時点でもともと青かったということになった」という複線的な時系列も、すべて拒否されなければならない。過去が現在の視点との関係から問題にされることそれ自体が拒否されなければならないのである。過去は現在のためにあるのではない。掘り起こされたチルチルとミチルの経験は、現在との意味連関を持たず、バラバラの個的事実としてしか理解されない。彼らには、幸福/不幸という問題設定そのものがなかった。家のなかに鳥はいたが、鳥に色はなかった。こうして複線的な時系列は、無限化される。

5.過去の救済とは、過去を解釈学の内部に包み込むことではない。過去を記憶に残そうとする私たちの意志こそが、過去の過去性を決定的に殺すことになる。過去を忘却し、過去と現在とが決定的に断絶されることこそが過去を救済することである。考古学的視点とは「視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の別名である」。



 変奏①――「後からそうなった」と「これからそうなる」の接続不可能性

 むかしむかし、チルチルとミチルという兄妹がいました。ある朝、ミチルは、メーテルリンクの有名な童話『青い鳥』が家の戸棚にあることに気づきました。「兄さん見て!私たちにそっくりよ!」と驚きを隠せないミチルは、チルチルと共にさっそく読み始めました。
 そうして本を読み終わると、チルチルが言いました。
「よぉし、ぼくたちも幸せの青い鳥を探す旅に出よう!」
それを聞いたミチルは、少し眉を顰めた後、少し照れ臭そうに言いました。
「待って兄さん!この本によると、私たちは旅から帰ってきた後にもともと家にいた鳥が青かったってことに気づくのよ。だったら、旅なんかせずにここで待っていても、家のなかの鳥は、今はそうじゃないけど、きっとこれから青い鳥になるんじゃないかしら‥‥」
 それを聞いたチルチルは笑いながら言いました。
「あはははっ、ミチル。何を言ってるんだい、ちゃんと物語を読んだのかい?」
「読んだわ、この家の鳥がどこかの時点で青くなるの!そして何かきっと幸せなことが起きる!」
「ははぁん、ミチル、さては何も分かってないな?ぼくたちがただ単に幸せの青い鳥に後から気づいた話だと思ってる?」
「それ以外になにがあるっていうの?」
「そもそも、もともと鳥が青かったのか、とか、どの時点で青くなったのか、とか大事なのはそこじゃないんだよ」
 ミチルはしばらく考えてから「じゃあ、こういうこと?身近なところに青い鳥を見つけるためには、長い旅路を経てからでないと苦労をして得たという実感がないから、幸せの青い鳥は現れない、とか?」と言うと、チルチルはこう返答しました。
 「それはよくある人生訓をそのまま敷衍しただけだろう?確かに、その本の中でぼくらは「青い鳥を見つける旅」という努力を実際に経た後に、もともと「家にいた鳥が青かった」と気づいた。そういう過程に色々な教訓を付け加えることができるだろうな。でも、そんな解釈は学校の先生とかに任せておけばいいのさ。真の問題は、こうした「後からそうなった」という〈現在から過去向きの構成〉を、ミチルが最初に望んだように「今からもそうなる」という〈現在から未来向きの構成〉と接続しようとしても、二つの構成は、結局のところつながることはない、ということさ」
 ミチルは兄の言いたいことが分かるような気がしてきました。
「後からそうなったからと言って、これからもそうなるなんて分からないっていうこと?」
「なーんだ、ミチル。分かってるじゃないか」
どうやら二人は互いに満足したようで『青い鳥』の本を戸棚にしまって、何事もなかったかのように遊びはじめました。


 変奏②――喪とメランコリー

 むかしむかし、あるところにチルチルという男の子がいました。チルチルにはもうすぐミチルという妹ができる予定だったのですが、悲しいことに死産しました。
   チルチルの家族は小さなお葬式をしました。その日の夜、チルチルは眠る前に彼の大好きな『青い鳥』という本を読み聞かせてくれるようお母さんにねだりました。しかし、お母さんは冷たく言いました。

 「チルチル、この本を読むのはもうやめにしましょう」
チルチルは、どうしてなのか分からないという顔をしました。
 お母さんは「だって、お母さんこの話を聞いても悲しくなるだけなのよ。ね?お願いよ。もっと他の楽しい物語を読みなさい」と答えます。
 チルチルは渋々「うん‥‥」と言うと、少し悲しい気持ちでベッドに入りました。
 
 ふと気がつくと、チルチルは夢の国にいました。夢の国の王は、チルチルのことを可哀想に思って「夢の国にいる女の子を一人だけ連れ帰って君の妹にすると良い」と言いました。チルチルは喜び、ある女の子を一人選んで「ミチル」と呼びます。チルチルは女の子の手を引いて夢の国から出ようとします。しかし、国境を越えると、女の子はどこかに消えてしまいました。
 チルチルは「この話どこかで見たなぁ」と思いましたが、どこで見たのか思い出せません。

 女の子を見失ったチルチルは、いつのまにか怒りの国にいました。怒りの国の王は、チルチルの境遇に怒り心頭し、妹のミチルがいない世界なんて滅ぼさねばならぬ!と叫びます。そのあまりにも大きな憤怒に気圧されて、チルチルは心が恐怖に満たされていくのを感じました。怯えたチルチルは「どうかこれが夢でありますように」と祈ります。すると、怒りの国はたちまち消えてなくなり、そこには荒野が広がっていました。
 チルチルは「なんか既視感あるなぁ」と思いましたが、何も思い出せません。

 荒野を歩いていると、チルチルは憂鬱の国にいました。
そこには、さっき消えたはずの女の子がいました。
「やっぱり君はミチルではないんだね」とチルチルが言います。
「そうよ、私はミチルじゃない。でも、あなただって違うでしょう?」
チルチルは不思議そうに聞き返しました。
「違うって?」
「あら、あなた、もともとは幸せの青い鳥を探しているチルチルだったはずでしょう?でも、いつのまにか死んだ妹を探していることになっている。あなたって本当にチルチルなの?」
「あ!」
と、チルチルは『青い鳥』という本を思い出しました。それはチルチルという男の子にミチルという妹がいて一緒に幸せの青い鳥を探す旅をするという物語です。でも、このチルチルには妹はいません。生まれながら死んでしまったからです。
「うーん。なんか、全部どうだってよくなってきたなぁ」と、チルチルが言いました。
「なにがどう「全部どうだってよくなってきた」の?」と、女の子が聞きます。
「ミチルが死んだってことは、もともと大事だったものが失われたっていうことなんだけど、それが何なのかがぼくにはよく分からないんだ。それにミチルは最初から産まれてこなかったということなら、もともと何も失われていないはずなのに、ある時点でもともと何か大事なものを失っていたことになった、と後付けで思いたいだけかもしれない。お葬式の時だって、お母さんは泣いていたけど、ぼくにはその涙がよくわからないんだ。そういう考えの絶え間ない流れが、なぜかひどくぼくを憂鬱にさせるんだよ。あーあ、もう全部どうでもいいんだって具合にね。ぼくって薄情なんだろうなぁ」
「私には、今の話を聞いても、それであなたが憂鬱になる理由がわからないわ。あなたが自分を薄情と思う理由もわからない」
「わからない?ぼくだってなぜこんなに憂鬱なのか‥‥そういえば、お葬式に来たおじさんが「魂を弔う」って言っていたことが一番よくわからなかったな。弔うって何なんだろう?普通のことのように言っていたけど」
「あなたは今まさに、自分では気づいてないでしょうけど、二つの弔いについて語っていたわよ。〈もともと大事だった何かが失われた〉という弔いと、〈ある時点でもともと大事だった何かが失われたということになった〉という弔いの間で、あなたは引き裂かれているように見えるわね」
「人の死を受け入れるとか、喪に服すということは、たいてい後者の弔いのことを指すんだろうな」
「そうなると、あなたがまず第一の弔いの後に〈何が失われたのかが分からない〉と言っている点と、第二の弔いの前に〈もともと何も失われていないはずなのに〉と言っている点とが、解釈として落ち着かないまま浮いているように思えるのだけど?」
「ぼくは、妹のミチルが産まれてこなかったことで〈この世界から何が失われたのかが分からない〉って言ってるんだよ。そのことがミチルが「亡くなった」という記憶が虚構である可能性をどこまでも裏書きし続けるから〈もともとこの世界からは何も失われていない〉とは語ろうとすれば語れるんだけど、そういうのも明らかに違う気がするんだ‥‥」
「それが憂鬱さの原因?」
「そうだとして、どうすればいいんだろう?」
「ミチルを忘れるしかないわね」
「そう言うと思った!」
「弔いがどうであれ、ミチルを記憶しようとする人々の「喪の仕事」こそが、ミチルを死産させ続けるのよ。そして、それは同時に最も誠実な喪を阻害し続ける。「忘れる」という最も誠実な「喪の仕事」をね。それこそが本当の過去の救済なのよ」
「でも、現実の記憶のなかじゃなくってもさ、夢の中の記憶で生かしたっていいんじゃないかな。それもミチルを死産させ続けることになるの?ぼくには、現実にミチルを忘れることより、夢のなかで記憶しているほうがずっとマシに思えてきた。ミチルは生まれる前に死んじゃった‥‥いや、ミチルは生まれも死にもしなかった、はじめから生とか死とかそういう観点がなかった。はじめから夢のなかであれば、記憶が虚構である可能性を担保するものは何もない。夢のなかでは、誰もぼくの「喪の仕事」を邪魔できない。そういう弔い方があったっていいだろう」
「‥‥現実の記憶と夢の記憶とを分けるって面白いわね。でも「ある時点でもともと大事だったものが失われたということに後からなった」という「後からの構成」が必須である「喪の仕事」は、夢のなかではできない仕事でしょう?皮肉なことに、あなたの言う夢のなかでの「喪の仕事」を、まだ誰も完成させたことがないのよね‥‥だけど、考えてみると不思議。むしろ自分の目が覚めているうちに、過去の救済があるなんて、どうして多くの人は思えるんでしょうね?」
「なんだか、過去の救済だなんだって言われても、なぁ」



 どうして幸せな記憶ばかり(単に幸せだったというだけで)忘れっぽくなるのだろうか?――読書会後記

 永井均『転校生とブラック・ジャック』所収「解釈学・系譜学・考古学」は良い意味で奇妙なところがある。前半の文章は、記憶を媒介とした幸福の探求とは何か!といった趣であるのに、後半の文章は、忘却を媒介とした過去の真の救済!といった趣に変わっている。短い文章なのに、最初と最後で文章の趣が明らかに違う。このことは幸福の探求こそが過去の救済につながるという短絡的な読みを許すものだろうか。決してそうではない。永井均は、人生における記憶と忘却には――過去の救済をめぐる――根源的な対立があると考えている。でないと、この文章は書かなかっただろう。
 ところで、私の母――苦労人なのだが――は次のようなことをよく言う。「悪いことばかり覚えているのに良いことはなかなか思い出せないのはどうしてなのか」と。
 「解釈学・系譜学・考古学」に引き寄せて考えると、それは「解釈学的探索」と「系譜学的探索」の違いから嚙み砕いて説明できるかもしれない。あらゆる思い出や現在の出来事を「もともとそうであった」という観点から自分の生を肯定しようとする解釈学的探索は、幸福がいつから幸福であったか――「ある時点で‥‥になった」――というディティールまでは端的に覚えていないことが多い。覚えておく必要がない、と言うべきかもしれない。ゆえに幸せなことはなかなか思い出せない。
 しかし、もっと深い理由を一つ挙げるとするなら、解釈学的探索から系譜学的探索への移行における「ある時点でもともとそうであったことに後からなった」という構成そのものが、私たちの単線的な時系列に関して「そうでなかったような過去」を暗に示してしまっているせいで、単なる幸せな過去をなかなか思い出せないということが考えられる。
 単線的な時系列が複線化され、幸せな記憶が単に幸せだったというだけで「そうでなかったような過去」を暗に(複線的に)示してしまうようになると「悪いことばかり覚えているのに良いことはなかなか思い出せない」という感覚に至るのも─むしろ逆に良いことばかり覚えている事例もありうるが─さして無理はない。この感覚をPTSDのような体験に比べると何が言えるだろうか?という点は今は措く。
 「変奏②」では、チルチルがそのメランコリー的円環に取りつかれている様子を描いてみた(ということにしておく!)。
 では、考古学的な視点ならどうだろうか。永井の定義からするなら、考古学的探索は、「そうでなかったような過去があった」として暗に(複線的に)示されるような視線にも決して届きえないような「過去」への、不可能な視線がある、と言える。それは読書会のあるメンバーが語っていたような「涅槃」に近いものかもしれない。

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