
想聖術─想惑明に至る真なる極意
序──想聖瞑想法から想聖術へ
想聖瞑想法は、特定の場を設け、聖なる存在と交信するための修行法としてソラホシテラスによって確立されたものです。
しかし、それをさらに昇華させたものが「想聖術」と言えます。
想聖術とは、瞑想という枠を超え、日常そのものを瞑想とする境地です。そこにおいて、もはや修行の場を設ける必要はなく、息をするように、ただ常に想う。それこそが、想惑明(そうわくめい)の境地であり、想天を得て、聖天に辿り着く極意なのです。
想惑──常に瞑想の中に生きる
想聖術において、瞑想とは閉じられた行為ではなく、開かれたものだと言えます。瞑想の時間と日常の時間を分けるのではなく、日常のすべてが瞑想となる。これを「想惑(そうわく)」と呼びます。
想惑とは、単なる思考ではありません。それは、意識の全てを神仏の流れに委ねながら、目の前の現実に完全に在ることだといえます。つまり、現実と霊的な次元の両方に存在しながら、そこに惑うことなく、しかし惑いの中に留まることで、すべてを受け入れる境地に至ることなのです。
息をするごとに聖天を想う
歩むごとに神仏と共にあると知る
目に映るすべてが神の現れであると悟る
これを続けることで、想惑は明らかになる。それが、「想惑明」です。
しかし、想惑にも2種類あります
上記の通り、私たちが日々抱く願望や悩みの中には、「想惑(そうわく)」と呼ばれるものがあります。これは、心の中に生じる迷いや欲望、執着といったものです。しかし、想惑には二つの側面があることを理解することが大切です。
一つは、想惑をただ単に悩みとして捉え、それに囚われ、苦しむこと。これでは思考が堂々巡りし、現実は好転しません。
もう一つは、想惑を受け入れ、それを乗り越えようとする姿勢を持つこと。このとき、人は「想惑明(そうわくみょう)」、すなわち想惑の本質を見極め、より高い次元の気づきへと至ろうとします。この行為こそが「想聖(そうせい)」であり、単なる欲望や迷いを超えて、本当に為すべきことへと向かう道なのです。
想惑をどう扱うかで、人生の流れは大きく変わります。悩みに囚われるのか、それともそれを悟りへと転じるのか──その選択が、未来を創る鍵となるのです。

(聖天遍路第18話より)
想惑明──想天を得て、聖天に辿り着く
「想惑」に生きることは、やがて「明(めい)」をもたらす。それは、想うことそのものが天(高次の意識)へと昇華される瞬間です。
この状態に至ると、瞑想という行為はもはや必要なくなります。なぜなら、すべての瞬間が聖なる光に包まれ、神仏の意識と一体化するからです。これこそが、「想天(そうてん)」の境地であり、それを得た者は聖天へと至る道を歩む者となるのです。
想惑明に向かい生きることで、以下の現象が起こります。
霊的な導きが常にそばにある
直感と霊感が研ぎ澄まされ、世界の本質が見える
もはや迷うことなく、すべての行いが霊的意志と一致する
想聖術の極意は、「想惑明」に至ることであり、そこで初めて、聖天遍路の道が完成する。
結論──想聖術の真理
想聖術は、ただの技法ではない。それは、生き方そのものの変革です。
人は、瞑想をしようとするとき、瞑想をする自分と日常の自分を分けてしまう。しかし、想聖術においては、瞑想の中に生きることが当たり前になります。
それは、呼吸をするように、歩むように、見るように、ただ「想う」こと。そして、その想いが神仏の領域に達したとき、そこに真なる悟りが生まれるのです。
「想惑明」を得ること、それこそが、想聖術の真髄です。