マイペース、を編む
あたLABでの実験をはじめてから、わたしはその時々で気になったこと、ふと感じたことをキーワードや短文で手帳に書き留めています。
先日それを見返したところ、ある時期から「自分のペース」に関することが多くなっていることに気づきました。
そしてそれは、秋の声を聞いた頃からでした。
◆動のシーズン再来
そうです。涼しくなってからはここぞとばかりに動いています。
暑さが苦手なわたしにとって、秋は待ちに待った「動き出す」時期。
春も同じくらい動き回っていますが、その前の冬もそれなりに動いている(ただし日中に限る)ため、秋の方が到来を待ち望む気持ちが格段に強いのです。
夏のわたしは、WELL-BALANCEDを探っていました。考えてみれば一年で最も「じっとしている」季節だったからこそ、バランスにフォーカスしていたのでしょう。
そして、秋の訪れとともにアクティブスイッチがONされると「動き方」が気になるようになった。
わたしにとっては自然な流れだなと感じました。
◆外の世界は刺激が多い
動き回るようになってすぐに、そしてハッキリと分かったのは、外出するということがいかに刺激的かということです。
家の中にいてもできることはたくさんありますが、わたしの場合、五感の働きぶりは外で何かをしている方が格段に上がるとわかりました。
街並みや自然などの景色を見て感じること。
人と直接触れ合って感じること。
リモート接続やバーチャル空間と何が違うのでしょうか。
それは「空気感」だろう、というのが今のわたしの考えです。
旅行で札幌に行った時、空気の匂いが違うと感じました。
友人たちと会った時、この雰囲気が尊いのだと思いました。
そうした「目には見えないけれど確かに感じられる何か」から、たくさんの刺激を得ているのだと思います。
そして重要なのは初めてそのように自覚したということです。
夏の間に自分のバランスを探り、感覚をしっかり見つめるようになったからこそ気づいたのだと思います。
▶︎刺激に翻弄されることも…
冒頭の「動き方」が気になるようになった…という点に繋がるのですが、外からの刺激は多種多様で、予期せぬものである場合もあります。
中には少し苦手な類の刺激もあって、五感が冴えてくるとそこからもいつもより色々感じてしまうようです。
そして、わたしはそういう時に「マイペース」という言葉に行き着くようで、手帳にはこの言葉を使った書き込みがいくつかありました。
そこに至る経緯を考えてみると、
まず、苦手な刺激というのは、別の表現をすると「波長が合わない」という感じです。
つまり触れると不協和音が生じるような感じになり、自分らしさ(自然で落ち着く状態)が揺さぶられます。
すると心のバランスが崩れ、行動のペースが乱れてしまいます。
その結果、「マイペースに!」と唱えたのだと思います。
▶︎そんな時に出る癖
わたしには「波長が異なる相手ほど、どうにか合わせようと無理しがち」という癖があります。
ただ、青春時代にわたしと関わっていた人たちにそう言ったら「どこが?」と返されるでしょう。
そこへの反論は一切ありません。
なぜならその時代の「素」のわたしには努力して他者に合わせるという発想がありませんでした。
自分だけではなく、周りもみんな自分のペースで動いていると思っていたのです。
(だから自分に合わせてほしいとも思っていませんでした。)
そんなわたしですから、「合わせようとする」ことはハードルの高いことなのです。
WELL-BALANCEDを探る中で気づいた
というのはこの癖が出ている時の自分です。
そして、そういう時のわたしが囚われているのは「協調性」という言葉だと気づきました。
◆協調性の意味を正しく理解していなかった
この単語を初めて意識したのは、就職活動をしていた時期あるいは社会人になりたての頃だろうと思います。
この時期は「協調性」や「空気を読む」など、社会・組織で重要とされるスキルについて(間接的な場合も含め)しばしば説かれていたたように記憶しているからです。
そういう話を聞いて、自分の性質がそれらと離れたところにあると感じたたことを覚えています。
恥を忍んで書きますが、わたしはずっと、「協調性」という言葉の意味を間違って理解していました。
「周囲の人や雰囲気に合わせる(同じようにする・ある)ことができる」ということが協調性だと思ってきたのです。
そのため「素の自分は協調性がないのだから意識的して合わせるようにしなければ」と自分に言い聞かせていました。
けれど徐々にしんどくなってきて、むしろその意識はバランスを崩す原因であると気づき…ふと辞書を引いてみたのです。
正直に言って、とても驚き、恥ずかしかったです。
お互いが異なることを前提に、互いに協力する。
それが協調性。
周囲の人や雰囲気に合わせる、なんて書かれていませんでした。
なぜ、これまで調べなかったのか。
疑問を持たなかったのか。
いえ、疑問が湧いたことはあったのではないかと思います。
けれどそれに蓋をして、自分で自分を息苦しくしていた気がします。
「わたし…協調、してる。してきたじゃん。」そう思いました。
似ているところは共に楽しみ、違うところは分担したり補い合ったり。
誰とでもそうできるとは言えないけれど、できる相手は少なからずいます。
居心地のいい相手は、協調できる相手だったのです。
▶︎協力の形はいろいろ
正しい意味を理解して、改めて協調性は大切だなと思いました。
そして協力の方法は一つではない、と思いました。
例えば誰かと何かを共に進める必要があるとき。
全てを一緒にやることだけではなく、分担しつつ隣で一緒にやる方法もある。
そして、完全分業(あえて一緒にやらない)こともまた一つの協力の形だと思うのです。
つまり、異なる波長(苦手な刺激)に接したら、できるだけ自分をそこから切り離すという選択をしたっていい。
それは別に協調性に欠ける行為ではないと思うのです。
むしろ無理に合わせようとして不協和音が生じてしまうと、自分だけではなくきっと相手もそれなりにしんどくなる。
そうなってしまうと、協調の継続は難しくなってしまうだろうから。
お互いが、自分のペース(心地よいテンポ)でいられるような協力方法を模索して、選ぶようにしたいなと思いました。
もちろん、何を選択するかという合意形成については一緒にする必要はあって、そのフェーズではちょっと無理をするかもしれないけれど。
◆静があるからこその動
必要最低限の「ちょっとの無理」が生じた場合、その最中で時折り(あるいはその後に)一瞬止まって自分を観察し、バランスを整える必要があります。
つまり、動の時期の中にも「静の時間」は不可欠なのです。
そうはいっても、染みついた習慣・癖というのはなかなか抜けません。つい無理をし続けてしまう可能性は十分にあります。
さらに動き回っていると癖が出たことに気づきにくい。
そうなると、意識するべきは「無理をしない」ではなく「休みながら動く(詰め込まない)」ということだと思います。
それならある程度、事前の計画でコントロールできるからです。
そして、動のシーズンに溜め込んだたくさんの刺激を振り返り、整理して、実りに変えるための「静のシーズン」を設けることもまた、大切。
そう思うと暑くて辛い夏にも意味を見出せる気がしてきます(笑)
そんな動と静の組み合わせが、今わたしが編んでいるマイペースです。
この先も同じ柄が続くのか、違う柄になるのか。
パターンはきっと色々あるでしょうから、楽しみです。