[目の見えない白鳥さん、アートを見に行く]
障害者、というイメージはどんなものだろうか。
なんとなく、いつも申し訳なさそうにしている、というのがイメージとしてないだろうか。
映画やドラマなどのイメージや、公共交通機関などで見かける方達は、健常者が「助けている」立場なので、必然的に弱い立場に立たざるを得ない。
白鳥さんは、そのイメージの障害者とは全く違う。
白鳥さんは全盲で光も見えない。
しかし、語弊を恐れず言うのならば白鳥さんは本当に「見えない」だけで健常者と変わりないのだ。
家事もするし、友達と美術館にも行く。
旅行もするし、お酒が好きで酔っ払って電車を逃す。
私の日常と変わりなく日々を過ごしている。
美術館に行くのも彼女とデートするために行ったのが最初と言うのだから、障害者という概念をことごとく打ち壊してくる。
目の見えない白鳥さんは、PCのモニターが不要だ。キーボードを正確に叩いて入力する。
目の見えない白鳥さんは、夜の暗い部屋の中でも行動できる。来客のために照明をつけるけれど、来客が帰ったら照明をOFFにする。光も見えていないのに、照明をつけた記憶が残っている。
この映画では白鳥さんが友人たちと美術館を訪れるシーンが多くある。作品を目の前にした時、多くの人は作品と向き合うのではなくキャプション(作品の紹介文)と向き合ってしまうことが多いように感じるが、白鳥さんに作品の全容を説明しようとすると自然と作品に向き合う。
作品の細部を白鳥さんに伝えようと何があるのか・どんな印象か・どんな色かを話す(全盲の人の前で色や見えているものを話すのはタブーかと思っていた)うちに自分自身が作品をどう感じているか言語化することになる。
または何人かで白鳥さんに説明していると、他人はどのように作品を捉えているかを知ることになり、作品の鑑賞が深まっていく。
白鳥さんの存在が会話の糸口となり、思考がまとまっていくのだ。
冒頭の話に戻るが、「障害者=弱い」という方程式は障害者を助ける側の健常者が作ったものであり、もっというと社会的・政治的な措置や配慮が「弱き者」というイメージを付けているようにも思う。
もちろん、できないこと・難しいことを補うのは当然だが、それは健常者間でもやっている・やらなければならないことなので、「障害者」だからと特別視することなく、みんなで幸せに助け合っていければいいよね、という気持ちになる。
とっても偽善者みたいな発言だけれど、本当に素直な気持ち。
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良い夜をお過ごしください。