なぜマンガはオノマトペを必要とするのか
オノマトペについて考える
マンガを読み慣れない私にとって、マンガ表現における最大の謎はオノマトペである。オノマトペとは、「ガガガ」「ドーン」「バシッ」といった擬音が、グラフィック的なデザインをともなって描き込まれるマンガの技法を指す。私は、マンガのコマがオノマトペで埋め尽くされた途端、画面全体がまとまりのない絵と文字の入り乱れにしか見えなくなってしまうという悩みを持っている。これがなかなか克服できずに困っているのだ。混沌としたビジュアルに戸惑い、先へ進めない。小さな頃からマンガを読む習慣がなく、いまだに読み方がわからない私にとって、オノマトペは理解を妨げるもっとも大きな障壁である。いまは1日に1冊ずつマンガを読んで目を慣れさせようと訓練しているが、まだうまくいっていない。たとえば下記のコマでいえば、私には「ズドドド」の文字だけが不自然に浮かび上がり、戦闘シーンの絵とオノマトペがまったく融合していない、混乱した状態として見えてしまう。
マンガ表現全般の複雑さ、マンガ特有の文法や記号性については過去に記事を書いたが(下記リンク参照)、今回はオノマトペに焦点を絞って考えてみたい。これがいちばんの難関なのである。マンガはさまざまな約束事に満ちているが、これまでマンガに接する機会のほぼなかった私の目にきわだって特徴的に写るのは、何よりオノマトペであり、物語への没入を妨げるものだ。なぜマンガは、このようにオノマトペを重要視し、伝達手段の中心に据えたのか。またマンガ読者が、オノマトペをごく自然に受容できる理由は何か。むろん小説にも登場はするが、マンガのようには多用されない。
四方田犬彦『漫画言論』
ここまでオノマトペに目が慣れない理由を知りたい。私はその答えを探して本を読んでみたのだが、大きなヒントになったのは、四方田犬彦『漫画言論』(筑摩書房)であった。本来は映画批評で知られる四方田だが、この本ではマンガ表現についてかなり深く分析している。わけても四方田のオノマトペ解説は、私の疑問が決して的外れではないと感じさせてくれた。彼は「オノマトペはコマに襲いかかる暴力である」という。この目の覚めるような指摘に、まさしくその通り! と納得した私である。そう、オノマトペは過激で乱暴なのだ。だからこそ困惑するのである。四方田は「(オノマトペは)漫画を積極的に襲ったのだ。オノマトペは絵柄の上に覆いかぶさり、絵柄を押しのけて自己主張する」と述べて、私が感じていた違和感を言語化してくれた。私はまさに、絵を押しのけるオノマトペの強襲に戸惑っていたのである。マンガの素人である私からすると、オノマトペの強引さは、絵とフキダシの調和を乱すでたらめな手法にも思える。
しかし四方田は、決してオノマトペに否定的ではない。彼は「(オノマトペは)漫画に独特の騒々しい雰囲気を与え、漫画をより発展させることに力与ってきた。グヮシーン。タッタッタッタッ。ヴィイイイ……。漫画にもしこうした文字化された音声が存在していなかったら、人はコマの映像の意味を見定めることもできず、音声を消したトーキー映画以上に虚しい気持ちを体験したはずだ」と指摘し、オノマトペの効果を肯定するのだ。ここで四方田は、オノマトペが「絵柄を押しのける」ほどに過剰なものであることを認めつつ、しかしこの過剰さがなければマンガそのものの意味伝達が成立しないと考えていることになる。ではこの「過剰さ」はなぜ生じるのだろうか。
なぜマンガだけが過剰なオノマトペを必要とするか
マンガ研究家の夏目房之介は『マンガはなぜ面白いのか』(NHK出版)で、オノマトペが必要になるのは「マンガが基本的に聴覚的=時間的なものも、絵や文字という視覚的=空間的なものとして描いている」からだと述べている。マンガでは音を絵で表現し、提示しなくてはならない。マンガにおける「聴覚」をおぎなうのがオノマトペだと夏目は指摘するのだ。たしかに、マンガとは紙と絵がすべてであり、音がないマンガ表現がオノマトペを必要とする前提はわかるのだが、その理論でいけば、小説(これもまた音声を持たない紙と字のメディアである)もまた、全編がオノマトペで埋め尽くされていなくては理屈に合わないではないか。なぜマンガだけがこのように過剰なオノマトペを必要とするのか。その問いに対して、四方田の『漫画言論』はこう答えている。以下、やや難しい表現ではあるが、解説しつつ読み解いてみたい。
オノマトペは漫画を騒音でいっぱいにする。だがそれ以上に、漫画とは(音声学的にも、意味論的にも、説話論的にも)不意の、予期されざる騒音に満ちたものに他ならないという本質を、明らかにしてしまう。それは事物と事物がいたるところで衝突を重ね、人間という人間が絶叫し、また狂喜し、大爆発と驚異とが数コマおきに発生したところでいっこうに不自然ではない環境といえる。
引用部分は少しわかりにくいかもしれないが、この四方田のオノマトペ考察をていねいに検証していこう。「不意の、予期されざる騒音に満ちたものに他ならないという本質」という言葉をかみくだいて説明すれば、「マンガでは、コマがいきなり大騒ぎになりがちだ」という意味である。マンガの世界で何かが爆発したり、登場人物が思い切り泣いたり笑ったりすることがあっても、決して理解しがたい異常事態ではなく、読み手にはそれを自然に受け入れる準備ができている、という意味合いになる。
マンガのコマにおいて何かと何かが激しくぶつかったとき、さまざまな人物が登場してコマが騒がしくなったとき、読み手は「ああ、マンガらしい」「これぞマンガだ」と感じるのではないか、というわけだ。こうした「マンガの騒々しさ」をもっともよく示すのがオノマトペだと、四方田は主張している。思い切った意見ではあるが、四方田の視点にはなるほどと感じさせる部分がある。四方田は『レッツラゴン』(曙出版)のコマを引用しつつ、マンガのコマにおける不意の衝突、爆発、騒々しさを提示している。コマを見てみよう。
衝突のスペクタクル
『レッツラゴン』における、コマを揺るがすほどの激しい衝突。「ガブリ」「ブチ」「ドカッ」「ボカッ」のオノマトペが、その爆発的な衝突を強調する。こうした場面はマンガに特有である。四方田が指摘するように、マンガの主人公が大きな声で何かを叫び、必殺技を放ったのと同時にコマ全体が大きな爆発に包まれるような事態が描かれても、読み手はそのようなものだと納得するのだ。四方田はこうしたオノマトペの例として、『ゲームセンターあらし』(小学館)のコマを挙げているが、ビデオゲームをプレイする少年が、派手派手しいグラフィック、めくるめく光と共に空中へ浮遊し、謎の空間に爆発を呼び寄せるといった描写を、読み手はごく自然に受け入れてしまうのである。「ギャッ」「ワッアアン」のグラフィカルなオノマトペは、マンガのコマが衝突、爆発、騒音に満ちたものであることを示す象徴だ。そして、このようなコマ全体を覆う途方もない騒々しさは、読み手にとっての興奮そのものである。この強調されたエネルギーの爆発こそが、マンガのクライマックスにふさわしい。
より簡潔にまとめるならば「たしかにオノマトペは騒がしい。でも、マンガはそもそも騒がしい表現なのだから、よく似合っているじゃないか」というのが、四方田の結論である。たとえば野球マンガでホームランを打った場面、グルメマンガで究極の料理を口に入れたタイミング、あるいは恋愛マンガで意中の相手に思いが通じた奇跡の瞬間。そこで登場人物のエモーションは最高潮に高まり、彼らの熱い気持ちがオノマトペとなってコマを埋めつくし、コマは激しい爆発を見せる。それこそが四方田のいう「人間という人間が絶叫し、また狂喜し、大爆発と驚異とが数コマおきに発生」する、マンガならではの騒がしさそのものである。そうした感情のほとばしりを示すのに、オノマトペはどうしても必要なのだ。
マンガは自由で騒がしい
たしかに、騒がしさの代表のような「バトルマンガ」がジャンルとしての隆盛を誇り、読者が登場人物どうしの激しいぶつかりあいを貪欲に求めるといった傾向はマンガ業界に特有である。小説の読者はそこまでバトルを求めないし、「バトル小説」といったジャンルはあまり聞いたことがない。音のない小説でバトルの描写は困難だが、マンガはオノマトペによって「衝突」と「騒がしさ」を手に入れた。だからこそ無音のメディアにおいて、激しいバトルが表現できるのである。マンガは本来的に騒々しいからこそ、絵柄を押しのけるほどのオノマトペがふさわしいのだ。
夏目は「オノマトペに類する言葉は、マンガという表現の『何でもあり』的な自在さと、それゆえに学術的な世界からはするりと抜け落ちて、研究分類対象になりやすい性質を象徴しているように思えてなりません」と言っている。オノマトペの過激さは、マンガが自由であることをもっともよく伝える技法だと夏目は考えた。四方田、夏目のオノマトペ考察に共通するのは、マンガというジャンルが持つ自由さ、つねにルールが更新されていく無軌道ぶり、奔放で騒がしい様子がオノマトペに託されているという見立てではないか。
あとはオノマトペに慣れるのみ
四方田、夏目の論を経て、ようやくオノマトペの意義を理解した私である。オノマトペは騒がしいが、それはマンガの持つ騒がしさやエネルギーと同意義なのだから、ジャンルの特性として受け入れるべきだと学んだのだ。とはいえ、むろん静かなマンガや落ち着いたマンガも多数存在するはずで、そうした静的なマンガ表現の奥行きを尊重した上で述べるのだが、マンガはその本性として騒々しく、ゆえにエネルギーを持つ。なぜ子どもがオノマトペを理解し楽しめるのかといえば、彼らは「だってマンガってさ、ワーッ、ドドド、ボガーンって爆発したりぶつかったり、おっきな声を出したりするところがおもしろいんだよ」というマンガの本質、マンガのマンガたる所以(ゆえん)を受け入れていたからにほかならないと推測する。そこにたどり着くまでに、私はずいぶん時間がかかってしまった。
そうしてオノマトペ表現に──すなわちマンガの騒々しさそのものに──自分の目を馴致させようと努力している私なのだが、ここ最近でひとつ気づいたことがある。昨年、話題になったテレビアニメ『映像研には手を出すな!』が好きになり、その後、私にしては本当にめずらしく、原作のマンガ単行本(小学館)を購入して読んだのだが、その際には読み通す困難をあまり覚えなかったのである。先にアニメ版でストーリーを把握していたせいだろうか。理由を知りたくなった私は、あらためて『映像研』原作を読み直してみて驚いた。『映像研』原作はオノマトペがかなり少なかったのである。だから私は『映像研』を読むのが比較的にラクだったのかと気がついた。
『映像研』はオノマトペが少ない
作者ごとにオノマトペの使用頻度が異なることは予想できたが、こうした差異に気づいたのは大きな発見であった。オノマトペの使用頻度によって、コマから受ける印象もずいぶん変わってくる。この発見が印象論に終わらないよう、いま手元にあるマンガ単行本3冊のオノマトペを数えてみた。使用したのは、『映像研には手を出すな!』1巻、『彼方のアストラ』(集英社)1巻、『青の祓魔師』(集英社)1巻である。ルールとして、コマ単位でのカウントとし、1コマ内に複数のオノマトペが混在していても1と数えた。コマをまたぐオノマトペも、1としてカウント。単行本1冊につき何コマでオノマトペが使われているかを調べた。以下は計測結果である。
『映像研には手を出すな!』 99
『彼方のアストラ』 194
『青の祓魔師』 230
いま私は、会社の同僚に勧められて『青の祓魔師』を読んでいるのだが、その後にあらためて『映像研』を読むと、画面の密度にあきらかな違いを感じる(これは単に初心者にとっての読みやすさ、画面の簡潔さについての比較であり、『彼方のアストラ』や『青の祓魔師』が内容的に劣っているという意味ではない)。『映像研』のオノマトペは、登場人物たちの空想シーンで集中して使用されることが多いのも、わかりやすさの理由である。オノマトペにそこまで依存しないマンガもあるのだと気づいたのは発見だった。著者によって手法は異なるのであり、今後マンガを読んでいく上で注目すべきポイントのひとつになった気がする。
いま私の手元にあるマンガでいえば、例外的ではあるかもしれないが『この世界の片隅に』(双葉社)のようにいっさいオノマトペを使用しない作品もあることだし、比較的オノマトペの少ない『映像研』のようなマンガから少しずつ目を慣らしていく方法も考えられる。私にとっては、オノマトペが少なければ画面は淡く、多いほど濃く感じられるのだが、マンガにおける画面の濃淡についても、今後の着眼点としていきたい。また個人的には、『映像研』が提示する「オノマトペを使用しないアクションシーン」をかなり気に入っている。ある完成した瞬間が切り取られたような美しさがあるのだ。私にはこうした雰囲気がしっくりくると感じる。オノマトペこそないが、人物は躍動するのである。
オノマトペは必要だと感じたコマ
しかし同時に、『青の祓魔師』のオノマトペ表現にも納得のいくコマが多数あった。たとえば、登場人物が銃を撃つ場面。「ドンッ」というオノマトペからは、発射時の重低音が感じられる。オノマトペは現実の音だけではなく、人の感情(ギクッ、ドキドキ、ポワーン)を含めあらゆるものごとを擬音として表現するため、私は混乱してしまっていたが、銃を撃つ場面での「ドンッ」は実に理解しやすいものだ。マンガ初心者である私は、ここでようやくオノマトペの役割を理屈ではなく実感として納得したのである。
このコマ全体の説得力はすばらしい。詳しく見ると、マズルフラッシュと着弾の衝撃、さらにはその中間にも細かく描き込みがなされた弾道表現の複雑さが目をひき、銃が撃たれた様子を細かく示していることが読み取れるが、何よりこの「ドンッ」のオノマトペがなければ、銃の発射イメージは読み手に届かないのだと納得できる。『青の祓魔師』を通じて、その点にようやく理解がいたったのである。なぜ銃の場面でオノマトペにぴんときたのかといえば、サイレント映画とトーキー映画における西部劇の違いについて、かつて淀川長治が説明していた内容を思い出したからである。
紙と絵のメディアが音声を獲得する方法
いまでこそ、西部劇とは銃を撃ちあうものだと誰もが思っているが、それは映画に音声がついてからのことである。淀川は「サイレントの頃のウェスタンというのは、馬と投げ縄なの」(『映画千夜一夜』中央公論社)と説明している。サイレント映画で銃を撃つ場面は、非常に伝わりにくい。着弾時の煙で表現するしかないのだが、それにも限度がある。そのため、サイレント期の西部劇におけるアクションとは、すなわち投げ縄であった。目で見える形でしか動きを伝達させられないのだ。西部劇映画が銃を本格的に導入するには、トーキーというテクノロジーの普及を待たなくてはならなかった。紙と絵のメディアにおいて音声を獲得しようとなると、やはりオノマトペを使うしかないのだという必然性についても『青の祓魔師』の銃撃シーンを通して学ぶことができた。
こうして、オノマトペの効用と暴力性についてひとまず理解が及び、今後は目を慣らしていくだけという段階にたどり着いた私である。オノマトペについて、ずいぶん長々と考えてしまったが、ロジックとしての必要性は把握できたと思う。しかし夏目が指摘するように、オノマトペは音声だけではなく、あらゆる感情や存在しない音をも対象とするのであり、「これをオノマトペとしていいのか」と判断に苦しむような例も登場する。ここがまた難しい。マンガの文法、ルールは作られた瞬間から逸脱していく傾向があり、私はまだ「オノマトペとは何か」という難問について悩んでいくのではないかと心配している。
【了】