アダム・プシェヴォスキ『それでも選挙に行く理由』(白水社)
なんで選挙なんか気にしてるの?
選挙の後はがっかりすることが多い。今回の衆院選も事前には期待がふくらんだが、私個人が望んでいたのとは異なる結果だった。ドラマティックな変化などそう起こらないとわかってはいるが、どうしても夢を見てしまう。なんだか投げやりな気持ちになってしまいそうな選挙後の状況で、「なんで選挙なんか気にしてるの?」と題された本を読んだ。著者はアメリカ在住の政治学者。大統領選の後に国会議事堂襲撃のような深刻な事件が起こった国に住む著者とって、選挙とは何か。人びとの社会的合意は、どうすれば成立するのか。たしかに再考するべき問いである。『それでも選挙に行く理由』は、選挙の歴史や意味合いについてあらためて学べる良書だ。
選挙とは不思議なものである。典型的な選挙では、有権者の約半数は破れた候補に投票している。過半数の得票を得て当選する大統領はめったにおらず、また多党制のもとでの議会選挙では、最大政党の得票が四〇%を超えることはめったにない。さらに、多くの人は当選した政治家に期待を裏切られている。要するに、私たちのほとんどは、選挙の結果、あるいは、自分が票を投じた政治家の仕事に失望しているといえる。しかし、選挙の後ではいつも、支持する候補が次の選挙では勝って期待を裏切らない働きをしてくれる、と期待する。期待と失望、失望と期待の繰り返し。
まったくその通りなのだ。期待しては失望しているのがわれわれである。これほど失望ばかりの行為を、なぜ飽きもせず続けているのか。著者は「負ける側になるのは不愉快なものだ」と認めつつ、では「選挙で支配者を選ぶ政治体制は、そうでない体制に比べて、経済的・社会的な平等をもたらすと期待できるだろうか」といった問いを立て、彼にとっての考えを述べていく。また「平和に、かつ自由を損なわずに政治的対立を処理するにはどうすればいいのだろうか」という疑問も実に重い。アメリカが抱えている問題とはまさにこれであり、日本においても同様に政治的対立は生じてしまっている。選挙はその溝を深くするだけではないか。つい選挙制度に対して悲観的になってしまいそうだが、著者にとって選挙とは「次善の策」であり、決してベストではないが、これよりマシな方法もないのである。
完璧な政治システムはない
すべての人の政治参加が個々人にとって効果的なものになるような政治システムはない。政府を市民の完璧な代理人にできる政治システムはない。現代において、多くの人びとが満足できる程度の経済的平等を実現し、それを維持できる政治システムはない。そして、社会秩序の維持と私権の保護を両立することは容易ではないが、民主主義以外の政治システムでは、その両立はさらに困難である。
本書がユニークであるのは、選挙の思わぬ歴史が見えてくるデータの数々だ。たとえば選挙とは近代になってからの現象であり、18世紀後半から現代までの300年のうち、政府が変わったきっかけとしては、選挙(544回)よりも内戦・クーデター(577回)の方が多かったこと。1850年には、誰に投票したかを人に知られずにすむ秘密選挙が、選挙全体の25%しかなかったこと。男女が平等な参政権を持つ国の割合はどのように増えていったかの推移(第二次世界大戦後の大幅な増加が読み取れる)。こうした、選挙制度にまつわるさまざまなデータは興味ぶかいものばかりだ。きっとこれからも私は選挙結果に一喜一憂するのだろうし、地道に変化を目指すしかないのだと観念しながら本書を読み終えた。認めるのは癪だが、選挙はおもしろく、どれほどがっかりするとわかっていても、始まればつい期待をかけてしまうものなのだ。以下を引用してこの記事を締めくくりたい。
選挙はいつでも私たちの希望を再燃させる。私たちはいつになっても公約につられ、選挙で誰かを支援する。それが可もなく不可もないクオリティの大衆向けのスポーツのようなものであったとしても、刺激があって魅力的だ。しかもそれは大事なものであるとされ、擁護され、有り難がられている。たしかに、民主主義の機能に対する不満が強い人にとっては、民主主義をあらゆる状況下での最良のシステムとして捉える可能性は低い。だが多くの人は、選挙戦を手伝ったり投票することで、自分たちの価値観や利益を前進させるのではないかと常に願っている。(…)「民主主義とは、流血なしに紛争を解決する……一連のルール以外の何ものでもない」。これが、選挙の本質である。