『スパイの妻』と、虚構としての映画
何だかもう、最初から最後までうっとりしてしまった。そこにまぎれもなく「映画」がある、と感じたのです。黒沢清監督の最新作『スパイの妻』は、実に映画らしい映画、映画のかたまりといったフィルムでした。そういえば黒沢監督はよく「映画的瞬間」という形容をしていて、それは具体的に定義しようとすると意外に難しいのですが、伝わる人にはきっと伝わる言葉だと思います。そして監督の語彙を借りるのであれば、『スパイの妻』には驚くべき映画的瞬間が確実に存在していました。
たとえば序盤、高橋一生の働く会社を東出昌大が訪れ、ふたりが会話する場面。高橋が職場を歩きまわり、彼を追うようについてくるカメラの動きや、東出に「お元気ですか」と訊かれた高橋の「ええ、至極」というせりふ回し(誰かに「元気か」と訊かれたら、私も一度は「至極」と答えてみたい)。あるいは憲兵分隊本部の東出に呼び出された蒼井優が椅子に座り、とある女性の死を告げられる場面でもいいかもしれません。ここで椅子に座る蒼井が、画面の中央にぴったりと位置する構図がたまらない。その奥には憲兵役の東出がいて、繊細なのか暴力的なのか判断つきかねる独特の面持ちで、いやな感じの圧力をかけてきます。
こうした場面を目にするたび、そのショットの強さ、美しさに打たれた私は「ああ映画だ」と思うのでした。そして中盤から後半にかけては、張り詰めた緊張感のなかで夫婦がお互いの心のうちを探っていく姿が、モチーフとして登場するチェスの試合のごとき細心さでもって描写されていきます。
しかしそれにしたって、「ああ映画だ」というのはある種の説明放棄であって、『スパイの妻』のすばらしさを表現できていない。ここで私が感じる映画らしさとは、リアリティとはまた別の次元で、大いなる虚構の物語として、あるべき理想的な姿を獲得できているという説明が近いかもしれません。『スパイの妻』は、ある男女がお互いを純粋に愛し合っているがために結びつくことができず、距離を縮めようと励むほどに離れていってしまうという逆説の物語になっています。ふたりの目論見はしだいに大がかりになり、お互いの生命すら賭した激しい戦いの様相を呈しますが、この愛の駆け引きの途方もなさは、まさに虚構のなかでしか描き得ないものなのです。
夫である高橋は何を考えているのか、蒼井にはその謎が解けない。このように、もっとも身近にいる相手がミステリアスな存在であり、その謎を解くことが何よりも重要なミッションになり得ることに、映画という虚構ならではのおもしろみがあると思います。古い日本映画におけるせりふ回しの再現もあいまって、そこには「リアルさ」とは異なった次元における迫真、観客を納得させる物語性が生じていて、そこにこそ『スパイの妻』の魅力があるわけです。
あまりにも『スパイの妻』に夢中になっていた私は「そういえば、渋谷のジュンク堂の映画本コーナーに監督の本が面出しで置いてあった」と思い出して、あわてて監督の著書を買い求めました。『黒沢清、21世紀の映画を語る』(boid)です。同書では、先述した「映画におけるリアル」について、非常に興味ぶかい論が展開されているのですが、その点についてこの場では触れずにおきます。
ただひとつ実に興味ぶかかったのは、フェリーニの『道』(’54)のラストシーンについて書かれた記述であり、『トウキョウソナタ』('08)で小泉今日子が海辺で涙を流す場面を撮る際に参考にした、ということが明かされていました。「これぞ人間描写の決定版」だと監督は説明されています。そして『スパイの妻』をご覧になった方であれば、『道』のラストシーンがどのような意味を持つかは説明不要であるかと思います。