『関心領域』と、想像の難しいものごとについて、それでも想像すること
絶滅収容所のとなりで幸福に暮らす家族
アウシュビッツにあった絶滅収容所の所長一家が、施設のすぐとなりに建てられた、美しい庭を備えた瀟酒な家に居住し、穏やかに暮らしていたという実話をもとに作られた作品が『関心領域』である(英作家マーティン・エイミスによる原作小説あり)。家族でレジャーを楽しみ、子どもを教育し、ひとつのテーブルで食事を摂り、誕生日のプレゼントを贈りあうルドルフ一家。地獄絵図のとなりで営まれる、平凡だが幸福な暮らし。劇中では収容所内の様子を一切描写せず、家族の暮らしや、所長であるヘス*1 の体験だけを描いている。また本作は音響効果が非常に重要であり、収容所内の情報が音として伝わってくる構造になっているのが大きな特徴である。監督は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013)のジョナサン・グレイザー。
本作を見ながら、もし自分がタイムトラベルをして、この所長一家と会話できる状況になったら、何が言えるだろうかとずっと考えていた。たったいま、となりの施設で行われているのは人類史でも前例のない最悪の犯罪行為なのだと説明して、一家に納得してもらうことはできるだろうか。絶滅収容所の誕生から80年以上経っても、まだ人類は「人間をベルトコンベア式に大量殺害するための工場を作り、実際に運営した」という途方もない事実を理解できていないと、あの一家に説明して、そのあやまちに気づいてもらうことはできるだろうか? おそらく話は通じないと私は思った。映画に出てくる登場人物はみな、なにかが麻痺してしまっている。私がいくら説明しようとも、きっと「ユダヤ人は人間ではない」「生存圏を確保するためだ」「第三帝国は千年続くのだ」などと反論されるだろうし、その認識の違いに次の言葉が出てこなくなりそうな気がする。
感覚の麻痺
私は、ナチスドイツや絶滅政策に関して個人的な勉強を長らく続けているが、それは同時に、収容所に関わる人びとがどのようにして正気を保っていたか、まるで想像がつかず、さまざまな本を読んでは、その不可解さに頭を抱えるということの繰り返しでもある。ラウル・ヒルバーグの著書『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(柏書房)*2 では「一九四二年晩夏までに、ポーランド住民はほぼ全員、ゲットーの外に住んでいるか中に住んでいるかを問わず、何が行われているのかに気づいていた。ついには、子どもたちですら、移送の目的を知るようになっていた」と書かれているが、自分の家の近くにある施設でたくさんの人が焼かれていると知りながら生活するのが、どのような状況なのかはまるで想像できないままだ。当時の欧州に、どれほどの人権感覚があったのかもわからないが、少なくとも「人を焼いてはいけない」という前提はあってほしいと思う。本作でもっとも驚くべきは、劇中で転勤を命じられたヘスが、別の場所へ引っ越すと妻に伝えた際、彼女が「絶対に引っ越したくない。ついに理想の暮らしを手に入れたのだ」と強固に主張するくだりではないか。彼女は、強制収容所のとなりで暮らすことを自発的に望んでいる! この不気味さをどう解釈すればよいのか。
きっと彼女は慣れてしまったのだ。収容所から聞こえてくる銃声や悲鳴、怒号、ユダヤ人が移送されてくる列車の音、収容所の煙突から立ち上るけむり、それらすべてに慣れ、そもそも存在しないものとして意識から除外する方法を習得してしまったのである。本作は「なぜ、絶滅収容所などという異様なものが生まれたのか?」という、現代に生きる私たちにとっての究極の問い(おそらく決して答えの出ない問い)に対する、ひとつの視座であるように思う。『関心領域』は声高に所長一家を責めてはいない。ただ静かに、彼らの暮らしや働く様子を提示するだけだ。きっとヘスはこれからも、より効率的な収容所運営のために邁進するだろうし、終戦後に戦犯として捕まっても、なにが悪かったのかすら理解できないまま死刑となるだろう(1947年執行)。そしてヘスの妻は、なぜユダヤ人から奪い取った毛皮のコートを着てはいけないのか、何年経ってもよくわからないだろう。私はそこに強い無力感を覚えるし、それは映画制作者も同様ではないだろうか。だからこそ本作で、収容所の近くをこっそりと歩きながら、中に囚われた人のためにりんごを置いてまわる女性の姿(人間性そのものの力強さ)が忘れがたく、また、エンディングに用意されたひとつの仕掛け(嘔吐するヘスが幻視したもの)に震撼するほかない。それは、この寡黙な作品から発せられる、絶滅政策に対する最大限の非難であるように感じるのだ。