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クリステン・R・ゴドシー『エブリデイ・ユートピア』(河出書房新社)
新しい世界を想像しよう
ファック家父長制。その熱い思いで書かれた『エブリデイ・ユートピア』を読み、私の心は燃えた。「家父長制は歴史的な構築物だ。始まりがあるのだから、終わりは来る」。その力強いメッセージを胸に、私も生きていこうと思った。男性中心主義の根幹をなす家父長制。この悪しき制度を終わらせ、真に脱却するには、新しい世界を想像することが必要である。これまでに、世界のあらゆる場所で、ユートピア的世界を作ろうとする試みはなされてきた。それらを紹介しつつ、家父長制ではない社会はいかにして可能か、を模索するのが本書である。そして、これは重要なことだからあらためて言っておきたい。Fuck the Patriarchy.
たとえばある高校生が、地方の高校を卒業して、東京の大学へ通うとする。その際に誰もが想定するのは、ひとり暮らしのアパートを借りるということだ。もちろん、学校の寮や、県人寮(育英会などが運営する、その都道府県出身者限定の学生寮)などの仕組みも一応はあるが、多くの場合は「ひとり暮らしのアパートを借りる」という選択肢を取るだろう。これはなぜなのだろうか。ひとり暮らしはお金がかかる。洗濯機も、炊飯器も、冷蔵庫も、すべて自分で買わなくてはならない。一方、仮に5人で共同生活すれば、家電類はそれぞれひとつあればいいし、食費も抑えられ、さらには友だちもできて孤独にならない。最小限のモノがあれば、みんなで共有できるのだ。なぜ、この社会はひとり暮らしがデフォルトで、共同生活によって負担を減らす方法を取らないのかと著者は問う。ひとり暮らしが前提という社会制度は、家父長制と関係があるのではないか、と著者は直感しているのだ。
みんなで育児したらラクじゃない?
育児で母親が苦しむのも同様だ。苦しみの原因は、家に自分と子ども以外の誰もいないからにほかならず、もし10組の夫婦と10人の赤ちゃんが大きな家に住み、お互いの子どもを世話しあいながら、さまざまな作業を分担したとすれば、個々の負担は相当に軽くなるはずである。家にはつねに誰か別の人がいるのだがら、疲れたら他の誰かに子どもを見てもらって眠ることもできるだろう。育児にかかるお金も節約できるし、子どもはさまざまな大人と触れあってより早期に社会性を獲得し、情緒豊かな性格に成長することが期待できる。しかし私たちの社会はそうなっていない。なぜか? 「私たちの住まいは、住宅の設計それ自体からして、各種のケア労働を家庭で(主に女性の手で)提供する、という社会規範の強化に加担しています」と著者は述べる。住居の設計といった暮らしの根本にまで、家父長制の思想が入り込んでいるのだ。だからこそ家父長制は手ごわい。ファック。「次世代を育てる仕事を私的領域に押し込めておく」ことが、家父長制にとってはなにより重要なのだ。「父系制と父方居住という二つの伝統に貫かれた一夫一妻の核家族は、不平等な社会を維持するための体のいい道具なのかもしれません」。
本書では、血縁によらない家族や、生活に必要なものを共有しあう共同体を作ろうとした人たちの歴史的経緯が数多く紹介されている。それらの試みは、失敗したり、消滅したりしてきた。私自身、ヒッピーのコミューンにはどこか悪いイメージを持っていたし、コミューンが多くの批判を受けてきたことも理解している。また、モノを共有する、という発想は共産主義だと叩かれやすい。しかし、いまある社会のかたちを当たり前だと思わず、なぜだろうかと考えてみる姿勢は本当に素晴らしいと感心するのである。資本主義しか選択肢はないという風潮は強いが、奨学金という名の学生ローンを背負わされた十代の子どもが金融商品として扱われ、搾取される社会が理想的だとも思えない。男性中心主義の現状を維持したい人びとは、新しい社会のあり方や、そのためのアイデアを「夢想的だ」「お花畑」と批判するけれど(家父長制が崩れてしまっては困るのだろう)、いずれにせよ家父長制には巨大なファックをおみまいしてやる必要があり、そのためにはあらゆる方向へ想像力を広げていかなくてはならない、という、非常に元気の出る1冊であった。