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クラーク志織『ロンドンの片隅で、この世界のモヤモヤに日々クエスチョンしているよ。』(平凡社)

初対面の相手に失礼なことを言う

もし『ロンドンの片隅で、この世界のモヤモヤに日々クエスチョンしているよ。』の著者であるクラーク志織さんが、たまたま私の参加した飲み会にやってきたらと仮定しよう。この記事のヘッダに載せた写真の方があらわれて、私の向かいの席に座ったとして、初めて会うクラークさんとなにか会話をしなくてはならない。さて、どんな話題で打ちとければいいのか。なるべく当たり障りのない、ふんわりしたトークテーマがほしいところだ。「イチゴとメロン、どっちが好きですか?」。ところが、この本を読んでいてなるほどそうかと思ったのだが、クラークさん曰く、われわれ日本人の多くは、イギリスと日本のハーフである彼女に対して、今日初めて会ったばかりであるにもかかわらず、なぜか唐突にこんなことを言い出すらしいのである。

だいたい初対面の人から「ハーフですか?」「ほぼ見た目外国人ですね!」「まつげ長い」「目が大きい」「鼻高い」「スタイルいいね」「イギリスっぽい」「アメリカっぽい」「ロシアっぽい」「日本語しゃべれなさそう」「顔が濃すぎる」などなど、とにかくカジュアルな挨拶のように、ルックスに対する何かしらの感想を言われて続けていました。

たしかにある、と思った。もしかしたら、過去に私も似たようなことを言ってしまったかもしれない。ことほどさように日本人には、なんの悪意もなく、ホメているつもりで、相手の容姿について必要以上に言及する傾向があるとクラークさんは述べている。どうやらわれわれには、会話の間を持たせるためだけに、人のルックスを平気で会話の材料にしてしまう困った国民性があるようなのだ。「背が高いですね、なにかスポーツしてたんですか」(なんだその質問は)。会話の潤滑油のつもりでホメてはみたものの、結果的にその言葉で相手を疲弊させてしまっているというのはあり得ることだ。人と会うたびに毎回このようなことを言われていたら、さすがにうんざりしてしまうだろう。こうして言葉にして伝えてもらわないと気づかない、いびつな構造がわれわれを取り囲んでいるのだ。

内側からは気づかない視点

日本の番組では、何人もの男性芸人がずらーーーっとステージに立ち、端っこにアシスタント的な役割の若い女性タレントがいて、なおかつ観客は全員若い女性、という構図を見かけることがよくある。日本に住んでいた頃にはおそらくなんとも思わなかったこういった光景も、最近は「おおお、偏りがすごいな」と引いてしまうようにもなってきました。

テレビ番組の作られ方もまた、内側からはわかりにくい視点だと思う。言われてみれば、お笑いの賞レース番組など、ほぼこの構図(壇上中央に男性、アシスタントと客席は若い女性)である。こうした指摘は、イギリスと日本を行き来する著者だからこそ持ち得た視点で、ああなるほどと納得すると同時に、ずっと日本にいる私は気づかなかったと新鮮に感じるものばかりだ。しかしどうして、観客が若い女性でないとダメなんだろうか。また、著者が初めてイギリスでデモに参加したときのこと、家の近所を歩いていたら、子どもに石を投げられたアジア人差別の経験、ベビーカーを押して歩いていたときにたくさんの人が当然のように手伝ってくれたエピソードなど、実体験ならではのリアリティや腑に落ちる感覚があって、どれも印象に残る。くわえて、イギリスの病院での出産時、無痛分娩をお願いしたのに処置を忘れられてしまい、「いまドクターが忙しすぎるからムリ」と言われる話など、日本ではなかなか起こらなさそうな気がして興味ぶかかった。著者がイギリスで感じた希望も、失望も、どちらも同じように胸に残るエピソードだ。

本書ではフェミニズムについても語られるが、著者は他人とモメたり衝突したりするのがなにより苦手な「気が弱いフェミニスト」なのであり、その点にも共感できた。私もかなり近い部分がある。著者が女性の権利について話していて、近くにいる男性が不機嫌そうになると「私は急に笑顔でヘラヘラし『まあ、私なんかが言ってもね』みたいに必要以上に自分のことを卑下し始めたり、なんとなくフワッと終わらせて、とにかく相手の機嫌を伺うような態度に出ちゃうのです」というくだりもとてもいいと思った。意外に多くの人が、こんな感じなのではないだろうか。私も気が弱くて、あまり主張できない方なのだ。フェミニズムについて人に語って理解してもらうって、思いのほか勇気が要る。声に出しにくいことを、どんな風にまわりに伝えていくか、そうした様子がまさに「日々クエスチョンしている」著者らしさで、好感を持った。

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