見出し画像

アイリス・オーウェンス『アフター・クロード』(国書刊行会)

「だけど血なのよね」

「なにかひらめくと、意見があると──いつもだけどさ──おまえはそれを披露せずにはいられないんだ、一回どころか十回も。だれかが割り込めばその相手を葬る。減らず口で相手を粉砕する。もうたくさんなんだハリエット。出ていってくれ」
「出てけ? 出てけってどこへ? なに言っちゃってんの?」あたしはビビって、マスタード用のナイフをマカロニの心臓に突き刺した。「わかった、ちょっとやりすぎんのは認める。ねばりすぎんのかもしんない。コミュニケーションとろうとしすぎんのかもしんない。だけど血なのよね。体験を分かち合うってのはとってもアメリカ的なことだから」
あたしは、自分が時間を稼ぐために、足場を確保するために、ぺちゃくちゃしゃべっているという気がした。クロードの怒りがただならぬ感じだから、思わず立ちどまって日没に見とれているうちに人殺しの旦那に崖から突き落とされようとしている罪のない女房みたいな心境になったんで。
「んなわけないだろう。おまえはコミュニケーションなんかしない。おまえは他人の気持ちを踏みにじる。だれの言葉にも耳を傾けずに、あんたはバカだと罵倒するだけじゃないか。ともかく、おまえの体験を共有させられるのはもうごめんだ」怒りで声が震えている。
「ちがうちがう。あたしの熱意を誤解してる。はっきりと意見を持つのはあたしの性分なの」

1973年に発表された小説『アフター・クロード』は、それまでポルノ小説を執筆していた米女性作家アイリス・オーウェンスによる作品である。物語の舞台はニューヨーク。半年間、クロードというフランス人男性と同棲していたアメリカ人女性、ハリエットが主人公だ。恋人に愛想を尽かされ、家を出ていくよう宣告されたハリエットが、あの手この手で家に居座り、男性の心変わりを待つというあらすじが語られる。追い出されれば行き場のないハリエットは大いに焦っている。彼女はどうしても出ていきたくないのだが、他者とまっとうなコミュニケーションを成立させる能力が絶望的に欠けているため、状況はどんどん悪化していくばかりである。まるで、ひたすらエンジンを空ぶかししつつも、全く前に進まない故障車から出るけむりのような徹底した無意味さと不毛な会話とが、『アフター・クロード』の魅力である。

実際、主人公は家を追い出されたくないと本気で心配しているにもかかわらず、同時に、表面だけでも改心したり、大人しくなったり、恋人へ献身的に尽くすようなふりをすることもできない。ハリエットはあらゆる会話をまぜっかえし、相手と反対の意見で逆張りし、場の雰囲気を完全に破壊しなければ気が済まないデストラクション・ガールなのである。彼女なりに気を揉みつつも、相手の前に立つと持病のごとく会話を破壊し、爆発させてしまう。その滑稽なまでのコミュニケーション不全がひたすら繰り返され、読者を惹きつける。ここまでみじめpatheticな登場人物には、なかなか出会えるものではない。相手の男(クロード)にもどうかと思う部分は多々あるが、それにしたってハリエットの愚かさは群を抜いている。どうしたらこのように非生産的な会話が可能なのか。しかしハリエットにはそれ以外の意思疎通手段がないのである。

スクリーンショット 2021-09-27 19.00.37

「枯れてません。枯れたとか言わないように」

「ってことは、あんたあのスノッブどもに洗脳されてんの?」
「どうやっておれを洗脳するっていうんだよ。ここに上がってきておれに言うのか、汚れたキッチンじゃきれいな皿を見つけられないだろうにって。あいつが転がり込んできてからというもの、ベッドがグチャグチャなままだろうって。きみの美しい植物が全部枯れちまったじゃないかって」
「枯れてません。枯れたとか言わないように。植物は暗示にすごく敏感なんだから」あたしは窓際に吊るされている植物に駆け寄って茶色い葉っぱをなでなでした。「あなたは生きてるわダーリン。あの人が言うことなんか聞いちゃだめ。あの人ほんとはあなたと同じくらい生き生きしてなきゃならないんだけどね」
けれどクロードはあたしのほがらかな性格の恩恵を受ける代わりに、両手を上げて下手くそなフランス式の見下してるマネをやり、引き結んだ唇のあいだからつぶやいた。「まるっきり話にならない」
「話になんないのはあんたのほうよ。これから経験できそうもない、最も偽りがなくおそらく最も意義深い関係から逃げようとしてるんだから。母親にお膳立てしてもらった関係じゃなかったってんでさ」
あたしがやつを抱きしめようとすると、あたしの腕は影だというふうにそこをすり抜けやがった。

ハリエットは相手を挑発するのも好きだが、特にこれといって明確な思想、貫きたい主義主張があるわけではなく、異議申し立てそれじたいが目的化している。余計なことを言わずにはいられず、相手とモメることでしか関係性を実感できず、言葉のナイフをお互いを突き刺し合ってナンボ、という戦闘民族なのだ。口だけは異様によく動くハリエットは、その抜群の反射神経で間髪入れずに言い返すが、ほとんど意味のない言葉の羅列にすぎないため、会話はただすれ違っていくばかりである。ことによるとハリエットは自分でも、制御不能なまでに過剰な饒舌を持て余しているのかもしれないと思うふしもあるのだが、だからといって無駄口が止まらないのが本作のおもしろさだ。酒の飲みすぎで倒れるかなにかし、強制的にシャットダウンしない限り、彼女のおしゃべりは延々と続いていくのである。

わけても、怒り心頭で「家から出て行け」と命令する相手に向かって「許すわクロード、すべて許してあげるから」と上から目線でなだめようとするくだりなど、ほぼ吉本新喜劇の「今日はこれくらいにしといたるわ」であり、読者は、この人にはつける薬がないと情けなくなりつつ、ページをめくっていくほかない。エマニュエル・ボーヴの小説にも似た主人公の愚かしさに、海外文学愛好家のひとりとして熱く興奮した次第である。あるいは本書をフェミニズム的な文脈に寄せて語ることも、がんばってロジックを組み立てれば可能かもしれないが、そのような工夫が徒労に思えるほどに、ハリエットの途方もない愚かしさは燦然と輝いているため、ここは素直にそのばかばかしさに敬意を表するべきであろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?