『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』と、社会を扇動する歌い手
驚きの実話
ジャズシンガーのビリー・ホリデイが、黒人へのリンチを告発する歌詞で知られる代表曲「奇妙な果実」(1939)を発表したことから経験した苦難を描いた作品が『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』です。アメリカ国内で公民権運動が活発化する中、同曲は社会を扇動する危険な楽曲だと危険視され、歌い手のビリー・ホリデイはさまざまな嫌がらせを受けていました。保守的な社会で孤立する彼女や、現代に至っても解決していない人種問題をテーマにしつつ、彼女がどのような人物であったかが重層的に描かれています。何より、これは実際に起こったことなのか? と不思議になるような人間関係が描かれており、 信じられないような展開でした。
物語は、ビリー・ホリデイ(アンドラ・デイ)の歌うライブの会場へ通いつめる若き黒人男性フレッチャー(トレヴァンテ・ローズ)の姿をとらえるところから始まります。フレッチャーはどうやら彼女のファンであるようです。なぜかつねに軍服を着ており、妙に目立つその男性はどうにか楽屋へ入れてもらおうと画策しますが、ボディーガードに阻まれ、門前払いされてしまいます。楽屋通いを根気よく続け、やがてようやくビリー・ホリデイと会話することを許されたフレッチャーは、お互いに交流を深めていきますが。実は彼は連邦捜査官だったことがあきらかになります。ある日ビリー・ホリデイの自宅へ踏み込んだフレッチャーは、麻薬使用の咎で彼女を逮捕しました。あのわざとらしい軍服も、相手に自分を印象づけるための演出だったと気づいたビリー・ホリデイの困惑した表情。当局の狙いは「奇妙な果実」をこれ以上歌わせないことであり、麻薬使用という別件で彼女を投獄し、音楽活動を止めさせたのでした。
激しい生き方をした女性
ここから驚きの展開となるのは、この黒人連邦捜査官とビリー・ホリデイの交流が逮捕後も続いていくことです。ファンを装って近づく態度も卑劣ですし、相手を信じたばかりに牢屋に入れられてしまったにもかかわらず、その後も両者の人間関係が継続していくのが信じられません。どうやら実話なのですが、こんなことが本当に起こるのかと驚きました。黒人の連邦捜査官であるフレッチャーは、組織の中で屈辱的な仕事をさせられており、ビリー・ホリデイを欺いたことを後悔していました。そうした彼の苦境に共感したビリー・ホリデイが、謝罪するフレッチャーを許して関係を継続させていく点にドラマを感じたのです。さらには、ふたりは男女関係にまで至ってしまうのであり、そこには人と人が惹かれ合うことの物悲しさのような感覚が強くありました。
『リスペクト』(2021)を見たときにも感じましたが、女性ミュージシャンが暴力的な男性に搾取されたり、支配されたりする傾向があると思います。本作にもビリー・ホリデイが暴力を振るわれる場面が出てきました。男性に支配されて身動きの取れない女性アーティストという傾向は現代にも続いているような気がします。アリーヤとR・ケリーにも同様の問題はありましたし、なかなか解決しないことのようにも思います。男性の束縛や支配によって、本来の才能を開花しきれないのではと感じる場面もあり、どうすればこの問題がなくなるのだろうかと思いながら見ていました。音楽家というよりも、激しい生き方をした女性のフィルムとしての印象が強かった作品と感じました。
本作の監督であるリー・ダニエルズの代表作『大統領の執事の涙』(2013)