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世界でいちばんNetflixを見ている男
Netflixへ就職した私が配属された部署は、妙に活気がなかった。どうやらユーザーの利用状況や満足度を調査する業務らしかったが、説明らしい説明も受けていない。Netflix、世界最強のエンタメ企業。うわさでは、仕事で結果が出ないとすぐクビにさせられるらしく、有能な人間だけが生き残れるジャングルのような会社だと言われていた。私のようにのんびりした性格の人間につとまるのだろうかと不安になったが、考えても仕方がない。いやに人の少ない、閑散としたオフィスを眺めているうち、思わず「私はこの部署で何をするのでしょうか」と質問しそうになった。その言い方はいかにも指示待ち人間みたいな感じがしたし、Netflixというジャングルで受け身な人間はライオンに喰われて即死だと思い直して、よけいなことは言わずにおいた。
「このユーザーについて調べてほしい」と上司は言い、ノートパソコンのモニタにひとりの会員の顧客情報を映し出した。東京都北区在住、38歳男性、2015年10月に会員登録、過去に利用料金の滞納履歴なし。
「普段の生活サイクル、人間関係、睡眠時間、食事、収入源、趣味、お金の使い道、その他の知りうる限りすべての情報が必要だ」
「調べるって、どうやってですか」
「この人物が住むアパートに空き部屋が出たので、賃貸契約をした。となりの部屋だ。君はそこに住んで、データを取ってほしい」
私はさっそく、Netflixに就職したことを後悔していた。もしかしたらドラマを作る仕事に関われるかもしれないと期待していたのに、知らないアパートに住んで、人の生活を監視するなんて絶対にしたくない。
「えっ、何でそんなことするんですか」
「このユーザーは、世界でいちばんNetflixを見ている」
「世界でいちばん」と、私は繰り返した。
「そうだ。起きている時間はほとんどNetflixだけを見ているといっていい。ただ流しっぱなしにしてるんじゃないぞ。エピソードごとに再生を数十秒から数分止めたり、話の途中で急に一時停止したりしている。きっとトイレに行ったり、風呂に入ったりしているんだろう。作品ごとにライクをつけたり、マイリストに入れたりといった作業も細かくやっている。いずれにせよ、視聴履歴からわかるのは、コイツはずっとテレビの前にいて、ちゃんと配信を見ているということだ。このユーザーの情報は、会社にとって本当に貴重なんだよ。何しろ全世界に2億人以上いるNetflix会員のなかで、視聴時間が世界一のユーザーだからな」
「なるほど」と私は言った。「でも、どうして私がその役目を」
「君はあまり人に警戒されない雰囲気がある。目立たないし、この仕事にはもってこいだ」
最初から私はこの役割のために雇われていたのだと、そのとき理解した。もし身の危険が及んだらどうすればいいのだろう。ずいぶん厄介な仕事を頼まれてしまった。
「この人物がどのような生活をしているのか。なぜNetflixを見る以外のことをしないのか。どうやって家賃や生活費を工面しているのか。そこまでNetflixを見続ける理由は何なのか、それらを知るのが調査の目的だ。その記録は、会社全体にとっての重要な情報になる」
「本人に直接連絡して、聞いてはいけないんですか」
「ダメだ。こちらが接触することで、相手の視聴行動に影響を与えてしまう可能性がある。それではデータの価値がなくなるんだよ。まさか『何でそんなに毎日配信ドラマばっかり見てるんですか?』『仕事してないんですか?』なんで訊けないだろう。本人に何の意識もさせず、ありのままの状態を知りたい。一度試しに『ユーザーへランダムに送りつけた』という体裁で、当たり障りのないアンケートのメールを送ってみたんだが、アイツはメールを開きもしなかった。社としては、この男のデータがどうしてもほしいのだ。北区の家賃6万5千円のアパートに住んで、朝から晩までNetflixを見る以外おそらく何もしていない、38歳男性の正体を知るのが君の仕事だ。くれぐれも、監視されていると相手に気づかれないように注意してほしい」
説明を終えると、上司はその場を立ち去った。これが合法な仕事なのかどうかすら、私にはわからなかった。
だからやけに月給がよかったのか。奨学金の返済で苦しい身としては、収入を途切れさせるわけにはいかず、月に手取り40万円の仕事をそうかんたんにはあきらめられない。お金に目がくらんで就職したら、Netflix中毒の男性の身辺調査をさせられることになってしまった。恋人にどう説明しようか。こんな仕事でキャリアアップできるのか。先行きは暗かったが、背負った借金を返済するためにも、私はこの仕事をやり切るしかない。観念した私は電車を乗り継ぎ、男性が住むアパートの最寄り駅に到着した。一度も聞いたことのない駅名だった。改札を出た私は、世界でいちばんNetflixを見ている男の住むアパートへ向かって歩いていった。